主を見上げて

チア・シード

黙示録4:8-11   


ヨハネが見た幻がふんだんに描かれています。それを一つひとつ解き明かそうなどとは思いません。下手な推測を重ねることも避けたいと思います。四つの生き物とは何か。分かりません。たとえヨハネ自身が一定のものを想定していたとしても、それが、その言葉によって表されているすべてだというわけではないでしょう。
 
神は、人の言葉以上のものを、そこからもたらすことができるのです。表裏全体に目の付いた翼をもつ生き物が、昼夜絶えなく主への賛美の言葉を歌っています。「聖なるかな」と叫んでいたイザヤ書のセラフィムの如く、「聖」を三度唱えたといいます。主は全能者、そして過去・現在・未来にわたって存在するお方です。
 
この賛美に加わりたい気がします。こればかり歌っていればよいかもしれません。この賛美と共に、24人の長老たちが主を礼拝します。さらに言葉も献げます。主こそ「栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」です。万物を創造した方です。改めて私たちは、この世界を見ます。宇宙を見上げます。そこにある万物を見渡すことなどできません。
 
私たちには見ることのできないものが、いくらでもあります。無数にあります。しかし万物が存在する、と私たちは考えています。自分が存在していることを感じています。そのような自分というものについて、確かな根拠が自分ではつくることができないことも分かっています。ただ、神からのみその根拠が置かれるのです。
 
私たちはここにいて、受け手としてのみ、その主を、万物を見上げています。私たちとは異なるお方としての「聖」、清く貴いお方としての「聖」です。全能者、創造者です。世界は初めと終わりがありますが、時間を超越したお方です。もはや人間には捉えきれない、としか言えないこのお方が君臨しています。単に、人間が小さすぎるのかもしれません。


Takapan
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