あなたこそ

チア・シード

黙示録4:1-11   


黙示録を理性で説明しようとする試みは、挫折を被ってきました。我こそはと挑んでみたところで、必ずや別の方角から嘲笑うような非難が飛んでくるのです。そもそも、説明できないからこそ黙示表現をとっているのであって、書く側が何を書こうとしたのかテクストの背景はあるのでしょうが、それを当てることに絶望を覚えるほどの代物なのです。
 
隠されていることが、やがて啓き示される。その啓示が黙示と訳されているだけのことです。それはやがての特異な時に明らかにされるのでしょう。七つの教会に宛てられた手紙が早々に開かれたところで、ヨハネは早くも天における礼拝の幻を見て描写します。審きの歴史はまだ始まっていないから、これはいま私たちの頭上でなされている礼拝かもしれません。
 
私たちもこの幻を見ることは不可能ではありません。心の眼は、信仰のフィルターを通して、この神への礼拝を見ます。また、そこに参加することが許されるのではないでしょうか。つまり、それは賛美という仕方においてです。聖なるかな、と三度繰り返されるのは、イザヤの見たセラフィムの幻の表現です。三位一体の証しと見る人もいますが、さて。
 
この全能者は、かつて・いま・やがてというあらゆる時の中で存在する方だといいます。このような時制で表現するしかないのが人間の浅はかさなのかもしれません。神は、ひとの思い描く、あるいはひとが制約されているこの時間に制約されているはずがありません。人間の思考枠に収まるような神観には賛同しかねます。ひとの分を超えるからです。
 
この賛美は、謎の4つの生き物の口から出るものでした。24人の長老はイスラエルの部族を代表する表現なのでしょうが、天使めいたものと見るべきなのでしょうか。その冠も神の前には何の力も輝きもありません。あなたこそ、の言葉は私たちの口から常に出るものでありたいと思います。私ではなく、あなたこそ。
 
特に近代人は、かつての王侯のような生活を堪能し、権利意識をもっていますが、これは人類史の中でも異様な風景です。あなたこそ・聖なるかな、という先立ちがなければ、ひとは天まで届こうとする高い塔を築きたくなります。自らを神としてしまおうとするのです。神に向き、あなたこそ、と常に口にする祈りでありたいと願います。


Takapan
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