自分のことが分からない

チア・シード

黙示録3:14-22   


ラオディキアにある教会の天使へ書き送れ。天の声より命じられ、島流しに遭っていたヨハネは、その手紙に、目に塗る薬を買うように、と勧めました。目薬を産出する土地柄であったというような研究もあるようですが、むしろ「見えるようになるため」という理由の方に注目しなければならないような気がします。盲目を意味はしないのだと思います。
 
視力はあるのに、見えていないのです。私が、街角の洋服店や甘味処に気づかないのと同様です。「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」という指摘も、そのためです。自分は満ち足りており、これ以上何も必要ではない、と豪語していること自体が、自己認識の欠落を証拠立てています。
 
それが「生温い」から「吐き出そう」と主が言う所以です。しかしよく考えてみると、これは実際教会の姿そのものではないでしょうか。私たちの教会はそんなことはない、と言えるでしょうか。私たちは、実のところものが見えていないのではないでしょうか。だからこそ、目薬を買う必要があるのです。目が病んでいるのです。
 
行いが中途半端であること、実は豊かではないことを悟り、それを痛感しているかどうかをテストしなければなりません「私は愛する者を責め、鍛錬する」と主は言いました。落胆してはなりません。私たちもまた、責められていると感じたら、愛されているのです。扉を叩く主に応えて、心の扉を大きく開きたいものです。
 
主が扉を叩きます。その声を聞いて扉を内から開くかどうか、問われています。イエスを迎え入れるならば、ともに食事をするというのです。それは、仲間になるということです。神は人を愛し、人と友になるのだ、と提言しているのです。そうすれば私は、「勝利を得る者」となることができます。主は勝利の主ですから、共に食すれば私も勝利するのです。
 
そうなるためにも「熱心であれ」と主は迫ります。「そして悔い改めよ」と畳みかけてきます。この声は、ラオディキア教会だけではなく、いまこの私たちの許へも届いています。かつて自分のことが分からないでいた私は、イエスと出会い、自分の罪の姿を知りました。そこで悔い改めて、主の方を向き直りました。すると主は、私に勝利を与えたのです。


Takapan
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