ラオディキア教会の幻が問いかける

チア・シード

黙示録3:14-20   


教会の天使に書き送れ。ヨハネが命じられたその最終便としての手紙が、このラオディキア教会へのメッセージです。そもそも天使へ手紙を送るというのはどういうことなのでしょう。しかも七つの教会です。知られていた各地に教会があったという意味の他、この世のすべての教会を視野に置いてのことではないかと思われます。
 
ここには、ラオディキアの土地の特色や産業のことを言っていると理解する人がいます。しかしただのご当地クイズをやっているわけではありませんから、何かしら人の知に相応しい形で神は考えさせようとしているものとして受け止めたいものです。モーセ五書でも、言葉の洒落からいろいろ意味をもたせることが多かったし、預言者エレミヤにアーモンドを見せるなど謎めいた迫り方をよく神はしていたものです。
 
ラオディキアは、紀元61年の地震で壊滅的な損害を受けました。しかしローマ帝国からの援助に頼ることなく、自力で復興したとの歴史がありました。そこにキリスト者がどのように関わっていたのかは分かりません。以前からユダヤ人は多くいたらしいので、キリストの弟子となった者も少なからずいたことでしょう。
 
温泉にかこつけて信仰の生ぬるさを、金融業の力を持ち出して、何でも金で解決できるかのような錯覚を指摘し戒めるなど、当地の特色をうまく絡めて、分かりやすく神からのメッセージを伝えることをヨハネは託されます。実は惨めで貧しいというのは、金に頼る空しさを表すと共に、神の前に罪ありと項垂れる人間の真相を正面から突きつけているように見えます。
 
果たしてその信仰に火は通っているのか。白い衣は繊維業に関係するのでしょうが、福音書からしても、清いイメージを運んできます。私たちはキリストを着よ、と励まされていました。衣を買うための代金はすでにキリストが支払っています。それが贖いです。衣は買うのです。しかしキリストが命を以て払ったという、血染めの真っ白な衣なのです。
 
薬業で知られたため目薬という話が出てきます。それは、実は見えていない私たちの姿を露わにするものとなりました。見えると言い張るところに罪があります。これを自覚し、その上で悔改めよと命じてきます。イエスは戸の外から叩き、その姿は多くの芸術家のイマジネーションを刺激しました。食事は神の国の豊かな交わりを考えさせます。イエス自身、盛んに、共に食することの大切さを、繰り返し身を以て伝えていました。
 
すでに世に勝っているイエスから、ここで勝利を得るのは誰なのかと問いかけられているように感じられます。戸の外のイエスが中へ入る情景が描かれていますが、中にいる者がまず主の声を聞く必要がありました。主の声を聞いてしれを信頼し、それに身を委ねる覚悟で応答をすることが求められています。私たちが心を締め切っていても、外から主が声をかけます。私たちはただそれを聞く耳を持って聞くだけです。神の国の祝宴が、始まろうとしているのですから。


Takapan
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