実は死んだ者

チア・シード

黙示録3:1-6   


黙示録というかなり特殊な文書は、筋道を通して捉えていくのが難しいものです。ここは周囲のことや大きな流れなどとは無関係に、サルディスの教会への呼びかけだけを取り出して耳を傾けてみようと思います。サルディスはリディア王国の大きな町で、工業が盛んであったといいます。当然そこには偶像がありました。キリスト者は細々と信仰を守って生活するしかありませんでした。
 
そもそも天使はどうしてヨハネが書き送らねばならないのかを明らかにしていませんが、私たちとしては、いまの私たちの教会へ、この警告が届けられているものとして受け止めるのが最も適切な姿勢ではないかと思います。七つの霊は、完全な存在を思わせます。生きているとは言いながら、実は命がない、とずばり指摘しています。人間は不完全な存在ですから、完全な存在から見れば死んだ者であり、いずれ死すべき者であることには違いありません。
 
本質は死の中にあるわけですが、いつまでもその死の中に留まってよいものではありますまい。矛盾したような言い回しですが、死にかけてはいるがまだ残された者たちがいると言い、それを力づけるようにと命じます。一人の信仰者として、かつて命のことばを受け、いきいきと活動していたことがなかったでしょうか。あの頃見た景色を思い出すことができるでしょうか。
 
老年にさしかかった者が、若者たちに呼びかけ、伝えなければなりません。このような経験を、クリスチャンはすることがあるのだ、と。忘れてしまいそうな、あの日の風景を、懐かしく思うのではなく、つねに目を覚ましてその命を輝かせていてほしいと願います。すると、そこに主が立っておられることが分かります。実のところ、主が現れても、ぼんくらな人間には、主だと分からないのです。
 
黙示録では教会自体も人格ある存在として扱われていますから、表現をどう理解するか複雑な事情があるでしょうが、個々人としては純粋な信仰を守り通している者がいて、白い衣でそれがイメージされています。命の書に名が、つまり存在そのものに命が備えられている人と、そうでない人とがいる、とも読みとれます。教会にいるからそれで安心だというきまりはないのです。一人ひとりが、主を知ることが求められます。
 
こうして「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」とお決まりの言葉を以て手紙は閉じられます。教会としてと同時に、個人としても受け止めるべきです。中には、これは自分のことではない、と軽んじる人もいます。それこそまさに、目覚めていない者です。死んだ者です。自分のことではないなどと、努々思うことのないように。


Takapan
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