どこがよかったのか

チア・シード

黙示録2:8-11   


スミルナの教会へ書き送れ、と命じられた手紙の内容がここにあります。果たして、一つの教会の分だけ取り上げてそれでよしとすべきなのか分かりませんが、パウロがエフェソを訪ねておりそこから近い場所であるので、パウロとの接触がその教会にあったか、あるいはそうした影響の下、信仰の共同体ができていたのかもしれません。
 
スミルナという名は、没薬の意味だそうで、よく知られた医薬品でもありました。死体の防腐処理のためにも欠かせないための邦訳のようです。死に至るまで忠実であれ、とここに送られたのも、この没薬との関係が考えられます。初めであり終わり、死人となり生きた者がこのメッセージを告げるというのもそうです。
 
この死人のあたりは、アオリスト形が使われていて、特異なかの時にこの死と生の出来事があった、と伝えています。イエスの十字架と復活は、紛うことなき事実として教会は了解をしています。迫害が続き、財も失った信徒たち。しかし主は、おまえたちは豊かだと告げます。苦しみを恐れるな、苦しみの迫りに怯えるな。反キリストたちから中傷を受けていることも主は知っているのだから。
 
獄に入れられ、一定期間辛酸を舐めなくてはならないだろうが、豊かなおまえたちはその豊かさを伴ってイエスに仕え続けることができると言います。忠実さをわずかでも失うことなかれ。苦難はもうしばらくの間続くが、しかし死へまでピストスであれ、と言っています。ピストスとはもちろん信頼・信仰。主への信を以て死へ赴け、と言っているようにも聞こえます。そこには永遠の命があるのです。
 
耳ある者は聞け。聞くことができるであろう。おまえには勝利が約束されているのだ。第2の死がおまえを傷めることはないのだ。立て続けに、慰めの言葉が告げられます。手紙を送れと言われた七つの教会の第二のスミルナ教会は、非難らしい非難を受けることがありませんでした。しかしその生き方は決して楽な生き方ではないようでした。
 
見たところ、悪い奴を追い出すなど何の目覚ましい働きもしていない教会なのですが、どこがよかったのでしょうか。生の輝きを以て主が飾ろうとすること、この上ないのです。苦しみを味わい続けているばかりのこの世ですが、この恵みを信じるとするなら、それは教会の慰めとなるし、教会のあるべき姿を示すこととなるのです。


Takapan
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