いまここで悔い改めるべきことに気づく
チア・シード
黙示録2:16-17
パトモス島に流されたヨハネが、主の日に大きな声を聞きます。さあ、見るものを巻物に記し、七つの教会に送れ。これが発端で、「その後」(4:1)次々と幻がヨハネに与えられるのです。七つの教会それぞれに、味わい深い内容の手紙が向けられます。正確には、「教会の天使に」書き送れ、ということでした。その3つめの手紙を共に読みます。
ペルガモンという土地柄と、実際そこにあった教会と信仰の実情を踏まえた言葉がここにある、と見てよいでしょう。しかしいまそれを歴史家の研究結果を借りてここに綴ったとしても、それはただの説明に過ぎないでしょう。私たちの魂に届くのは、そうした解説ではありません。いま切り取って受ける言葉は「悔い改めよ」だと思うのです。
「さもなければ」と続きます。そもそもここでの「私」は主であるとしてよいだろうとは思いますが、だとするとヨハネは正に主の言葉を預かる預言者となっています。その主が、教会へ行くといいます。その「口の剣で」異端の教えを奉ずる者たちと戦う、とするのです。異なる教えの混入に対して「勝利する者」であれ、と告げていることになります。
「隠されているマナ」や「白い小石」というものが何であるかに拘泥する必要はないでしょう。ただ「その小石には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が記されている」というところに慰めを得たいと思います。ともかく「悔い改めよ」という通告は厳しい。ここでは「バラムの教え」(14)があるといいますが、教会に侵入してくるのです。
しかも、こっそりとすりかえるように入ってきます。そして当たり前のことだ、真実なものだ、と私たちが思い込むということが起こり得ます。悔い改めるためには、そのことに気づかねばなりません。そもそも気づいていないからこそ、侵されてしまうのです。聖書から常に、おまえは勘違いをしていないか、と問われ続けていると自覚すべきなのです。