一年を閉じる祈りのために
チア・シード
黙示録22:6-21
人間が区切っただけの、年末。そこに小さな終末を覚えるというのは、心情的なものに過ぎないかもしれませんが、確かに私たちを終末の世界へ招待してくれます。新しい時へと一瞬にして切り替わるわけで、いまの時はもう限られていることを痛感します。黙示録は、そういう時を示します。カウントダウンが始まり、「来りませ」との言葉が響きます。
「また」という語で表現を始める場面が続きましたが、ここは本当に最後の情景です。「これに付け加える者があれば」と、呪いの言葉すら出てきますが、どうやらこの章の言葉自体が、元の黙示録の原稿に付け加えた別の筆者によるものであるように、多くの研究者が見ています。黙示録がどのように形成され、増補されたのかはまだ調査中です。
どうにも信徒の思うようにならないのがこの世です。しかしそれが、神の国に変わります。そのためにはどうあらねばならないのでしょうか。神の理念の実現をイメージさせるために、黙示録は助けになったことでしょう。教会でもこれが礼拝に用いられ、これを基に神の言葉が語られたことを思い浮かべたいものです。
主は天使を送り、預言者ヨハネへ教えたのだ、と証言するところから、黙示録の最後のこの場面は始まりました。天使からそれがどう与えられたのかを描写します。天使はひれ伏す対象ではないのだと教えられ、これは秘密にしておいてはならない、と諭されました。こうした楽屋裏のような事情まで、ていねいに伝えています。
「時が迫っているからである」という言葉に、年末にその年があとわずかしかないことを重ねると、時は確かに限られています。終末では、裁きの時が来ることになります。このとき、人の罪状が今後変わるようなふうであってはならないものでしょう。不正の者は不正のまま、汚れた者もそれままであらねばなりません。
「見よ、私はすぐに来る」と天使はイエスの言葉を伝えます。命の木に与る報いを携えてくるイエスは、都の外に弾かれる者たちを決めます。聖なる都に所業の地を与えられるのが、古代イスラエルの歴史風な叙述でした。命の水は値なしに与えられ、命の木も受け取ります。「アーメン、主イエスよ、来りませ」との祈りは、私たちの常なる祈りです。