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チア・シード

黙示録22:18-21   


「初めに神は天と地を創造された。」旧約聖書の初めと対応しての結びだと見てよいかと思います。それとも、同じヨハネの名を冠する文書としてのヨハネによる福音書の初めにあった「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とつながっているのでしょうか。同じヨハネの名がありますから、意識していたと思われます。
 
ヨハネの手紙というのもあります。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について」もまた、つながります。この黙示録は初め「イエス・キリストの黙示」でした。すぐにでも起こるはずのことだといいます。終わりは聖書としての大団円、「然り、私はすぐに来る」でした。
 
そのためにヨハネは証しをします。これを聞くすべての者に、こうした証しをしたのです。つまりは、聖書のすべてがそうだったのです。それはヨハネであると共に、いつからか主であるようにも思えてきました。聖書が須く神の言葉であるから当然かもしれませんが、だからこそ、神の言葉を詐称してはならないと戒められます。
 
ひとが考えついた思想を、これは神の言葉だと言って掲げてはならないのです。また、ここはいらない、と勝手に削ることもしてはなりません。ここは私にとり都合の悪いことが書いてあるから、なかったことにしよう、とするわけにはゆかないのです。その意味では、ルターも一部の書を邪魔者扱いしたことはこれに抵触することになりましょう。
 
プロテスタントが、ルターを信奉するのもほどほどにしなければなりません。聖書のみ、というスローガンはよいのですが、ルターが完全というわけではないのです。さあ、人間は皆この良い知らせを聞いてほしい。自分の非と無力を知り、自分が及ぼす悪と罪について気づいてほしい。もちろんまず私から。そして幸せを受けてほしい。誰もが。


Takapan
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