命を懸けた祈り

チア・シード

黙示録22:16-21   


いよいよ黙示も幕を閉じる時が来ました。田川建三氏は、17節の「“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」の部分のほかは、皆第二の著者の付加であると考察しています。
 
「これに付け加える者」と「何か取り去る者」とを呪っておきながら、自ら書き加えるとは何事だというのですが、私たちもそのような誘惑に駆られることがあります。説教や説き明かしが決定的な力を及ぼして、第二の聖書のように扱われる、あるいはそのように思わせるように振る舞う危険性があることを覚えたいものです。
 
怖いのは、語る者本人が知らず識らずの間にそう圧力を加えていくことであり、しかも本人がそのようには全く感じないという事態があることです。説教は、神の言葉が一つの具現性を以て立ち上がる場面ではあっても、そのすべてが神の言葉としてのテクストであるわけではないのです。語る者が自らの考えをテクストとするのは、自らを神とすることになります。
 
それは錯覚が入り込む隙があるということでもあります。黙示録はこういった注意をするほかは、終わりに「来たりませ」つまり「マラナ・タ」と繰り返します。主イエスを来てください。この祈りは私たちの求めでもあるし、またそのように求めなければなりません。天使たちも共に和して叫ぶはずです。神の国が来ますように。
 
そう、主の祈りがそのように祈れと教えていました。御国が来ますように。私たちが日々口にして祈っている言葉が、なんと大いなる世界の中で掴まれていたことでしょう。この黙示録に用いられている表現や描写は、旧約聖書の中から引っ張ってきた言い回しが多く、それがまたなんとも都合良く引っ張ってきたものです。逐一ここでは取り上げられません。
 
様々な迫害の及ぶ中、命からがら叫んでいる信徒と、それをなんとか助けようと言葉を探している筆者のことを、余りとやかく言わないがよいでしょう。末尾の「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」との祈りが、命を懸けた、万感に満ちた精一杯の心として伝わってくる、そんな心を私たちは持ちたいと願います。


Takapan
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