呼びかけ

チア・シード

黙示録22:16-20   


わたしはヨハネである(黙示録22:8)。しかし12節で、すぐにくる「わたし」はイエスのことです。「わたし、イエス」(22:16)と明確に告げてもいます。今でこそ「 」で誰の言葉がどこからどこまでかを定めて記す習慣がありますが、かつてはありません。時にこれが解釈の分かれ道となります。もちろんここでは曖昧でない部類に入るとは思うのですが。
 
黙示録を結ぶにあたり、主イエスの権威的宣言がなされています。ダビデのひこばえ、美しい表現です。明けの明星などと詩的な言葉も投げかけられます。ひこばえとは、どうやら根のことのようです。メシアを指し示すために当時こうした決まったフレーズがあったのかもしれません。ダビデの一族とあるのも、子孫を指しているのではないでしょうか。
 
明星は中東では、王の勢いを指すことがあったようです。キリストのシンボルには魚も使われていたといいますが、聖書ではそれをあからさまに使ってはいないようです。確かに魚を掲げもシンボルとして印象的ではなかったでしょう。魚を獲る物語やエピソードの中に、それが隠されているというのなら、まだ分かりますけれども。
 
福音書や手紙、そして教会の様々な伝統の中に、キリストの姿をありったけ語り合う文化があったのでしょう。来たりませ、と私は呼びかけ、価なしに命の水を与えるイエスの恵みが、イエスの言葉として最後に告げられています。これを受けて、語る者は再びヨハネに戻されます。人は証しをし、この書の権威を求めます。付け加えてはならず、取り去ってもなりません。カノンを表しているからです。
 
では、私たちの説教あるいは説き明かしというものはどうなのでしょう。説教は古代教会からなされていたし、奨励そのものはイエスも会堂でイザヤ書から語りました。しかし黙示録は、まるで聖書の言葉以外のものを封じているかのようにも聞こえます。あらゆる説き明かしすら、取り去ったり付け加えたりすることと解釈されないのでしょうか。
 
私たちは神の言葉に、あまりにも膨大な解説を付け加えた説教を主日ことに聞いているし、その数は教会ごとにあるので天文学的な数字であるはずです。また、そうした書物が世に溢れています。いや、そんなはずはない、と誰もが言うでしょうが、だとすると、この黙示録の最後の警告は、何をどの程度に禁じているのでしょうか。文献批判はそれをしているはずです。
 
創世記の初めの命の木と楽園への言及もここにあります。聖書を閉じるに相応しい配慮の結びとなっている観があります。イエスの呼びかけがあり、それにレスポンスする形で主イエスよ来たりませと応えます。神からの声はここで止まり、ここから先は読者や受け手が一人ひとりに受け止めて感じ、応えていくよう求められています。誰もが神に向き合いながら。


Takapan
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