主イエスを待つための聖霊

チア・シード

黙示録22:12-17   


黙示録における世の終わりの描写は、実に生々しいものでした。殺戮の嵐が吹き荒れました。でも、昔の人が、与えられた幻を、なんとかして伝えようと、限られた言葉を駆使して積み上げた説明を、これまた限られた知恵を以て現代の私たちが受け取るのです。どれだけ経験をうまく共有できるかは、実に頼りないものと言わざるをえません。
 
黙示録なんて嘘で、くだらない。そんな理性的な評価をする人が多いのは残念です。私たちの理解が足らないとは考えないのでしょうか。そんなにいまの私たちは正しいのでしょうか。私イエスはすぐに来る、そのメッセージ色が、ここへきて俄然濃くなります。その声を受けて「来りませ」と待つべきであるのだ、と黙示録は最後に私たちを促します。
 
要点はこれです。どんな理屈をこねようと、主イエスは来るから待て、これに尽きます。報い云々がちらつきますが、私たちが安易に思いつく意味であるかどうかは保留しておくとよいでしょう。αでありωであるという神のなすこと、思うことが、人間の中で把握でき消化できるというふうに、軽々しく思い込むことからは解放されたいと思います。
 
考える葦として人間を捉えた信仰者パスカルにしてみれば、人間は小さいが宇宙全体を思惟できる故に、宇宙を包みさえするのだと言えるのですが、神を包みこむことはさすがにできないとすべきでしょう。むしろ私たちをこそ、神が包みこみ、高いところから見つめ、なおかつ慈しんでいてくださるという構図を、前提とすべきなのです。
 
命の木に与る資格をプレゼントされ、神の都に入るために衣を洗い清める者は幸いだと告げられています。でも考えてみれば、自分で洗って清くするというわけにはゆきません。小羊の血で洗ってこそ清められるのです。都の内へ誘われる野は、この主の血によってのほかはありません。人間の力が人間を救うなどとは、努々考えるべきではありません。
 
教会にイエス自らが知らせてくれている、とも言っています。天使が送られるという言い方をしていますが、これを聖霊と捉えてはいけないでしょうか。天使ですらしばしば聖書では神そのものでありうるのですから。ペンテコステにおいて私たちに及んだ聖霊と、違うものが送られているのではない、と理解してはどうでしょうか。
 
命の水が与えられます。渇いているならば、そこに来ることが許される、といいます。価なしに飲めるのですが、代価は十字架のイエスが支払っています。命の水、生きた水が、外から与えられるとなっていますが、私たちの内からも流れ出ることをヨハネ伝は教えていました。描かれたこの図式は、渇き求め待つところに、実現することでしょう。


Takapan
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