永遠の都を目指す旅

チア・シード

黙示録21:22-27

コリント

やがて来る、永遠の都。キリスト者は目的地をそこに見ます。目的というのは、ゴールのことです。そこから先はないのです。あるのは永遠だけ。聖書の神と出会い、喜びを見出した者にも、この世では悩みが尽きません。それで信頼すべきその神は、最終的に幸福をもたらすものだと仲間は互いに励まし合います。黙示録は、その究極の幻であり信ずる先の具体化です。
 
しかしその永遠の都には、神殿が見えません。ヨハネが提供する幻には、肝腎の神殿が見当たりません。記された当時、神殿は破壊されていました。そもそもバビロン捕囚で破壊されましたが、エズラやネヘミヤの指導で小規模ながら復活したエルサレム新聞。ヘロデ時代にはそれなりの形を呈してユダヤ自治の精神的要となっていたことでしょうが、その語のユダヤ戦争で完膚無きまでに破壊されました。だから、終末の都にも神殿がないのでしょうか。
 
エルサレム神殿は見えません。もうないのです。けれども希望はあります。この矛盾の中で、与えられた幻が、主と小羊の姿でした。神殿と呼べるものはもう神自身と小羊すなわちイエスしかないというのです。建造物であれば、太陽や月の光を浴びてのみ輝き、見えることでしょう。しかし、いまや太陽も月も必要ではありません。神自らその栄光で輝いているからです。小羊も灯です。人の立つ岩となり、道を照らす灯りです。
 
この都には門はありました。入口がありました。狭い門だったでしょうか。ですが、もはや鍵も要りません。ペトロもお役御免となります。門はつねに開かれていたのです。城壁の町としては、夜は保安のために門が閉じられることになっていました。が、その安全を破壊する者はもう、この究極の時には、いないのです。審きが成し遂げられ、存在するのは神と救われた民だけですから、門を閉じる必要がなくなっているのです。
 
悪のない世界に、善良な人々は憧れていました。しかし気をつけることは、その悪はその人自身でもありました。悪よ滅びよ人間が称えても、それは自分が滅びることにしかならなかったのです。けれども神にはできます。神が悪を消滅させたとき、それはすべての時間の終わりであり、出来事の終わりです。ともかくこの状況の描写は、私たちの言葉が追いつきません。人間の想像のすべてを超えている世界です。ヨハネが懸命に言葉に置き換えようとしますが、どだい無理があるのです。
 
悪はすべて処分されました。想像できない様子ですが、そのようにしてすべての終わりが来ました。だから、そこには夜がありません。光しかないのです。その光の中に、小羊の命の書に名が記されている、つまり贖われ救われた者だけがいることを許されています。この幻こそ、自分たちの行く先なのである、と信じたとき、キリストにつく者は喜んだことでしょう。慰めとなったことでしょう。
 
いまの私たちは、地上で天にいるような豊かな生活をしている気になってはいないでしょうか。ヨハネの幻が慰めだと思えなくなっていないでしょうか。私たちは、地上に天国をつくってしまったのでしょうか。あるいは、つくろうとしているのでしょうか。
 
恐らくイザヤ書あたりにある預言の言葉をいろいろ借りて、終末の幻がいきいきと描かれています。イザヤ書には苦難の僕の姿が描かれていました。打たれたイエスの傷痕が、永遠の都の神殿そのものとなりました。世のおぞましい姿に怯え悲しむ人々が、イエスその方を崇める礼拝に自分の運命全てを預けました。それほどに、神を頼っていました。また、憧れていました。人の心には、美しいものや永遠への憧れが宿っています。真実の世界が実現することへの期待が胸にまだあります。神は、言葉により存在を可能ならしめるお方です。それが創世記の初めから示されている、神の力でした。
 
イザヤ書は最後のほうで、イスラエルの民だけでなく全国民から救われる民がエルサレムを目指す預言をしていました。黙示録でも、その内容を引き継いでいます。主とイエスから目を逸らしてはいけない、とヨハネは呼びかけているかのようです。そうです。私たちは、この都へ向けて旅をしています。目的を見失えば、方向を誤ります。今日の歩みもまた、その旅の途中であります。あなたはいま、どちらを向いていますか。


Takapan
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