神を称える言葉を知りたい

チア・シード

黙示録1:4-8   


七つの教会へのメッセージというときには、本当に教会は七つ挙げられましたが、七つの霊から、というときには霊が七つとカウントされるものではないと思われます。黙示録の冒頭には一種の前口上がありましたが、それが終わるとこの最初の設定とおおまかな全貌とが端折りながら語られることになります。ついには、全能の主が世界のすべてのすべてだ、とも。
 
時が迫る中、七つの教会へまずメッセージが伝えられます。それは、世の終わりにまつわる知らせでした。とりあえずそれは、イエス・キリストからのものであるという宣言、また頌栄が示されました。神がどのような方であるのか、私たちが言葉を紡ぐにあたり、大いに注目したい表現ではないかというふうに捉えてみたいものです。
 
今もかつてもおられる主が、やがてまた来られる方でもあると知らせます。時という区切りが通用しないのが主という存在です。また、イエス・キリストは真実の証人であり、死者の中から最初に復活した方です。地上の王たちを支配する方でもあります。これらの宣言は、世の支配者に虐げられていた信徒への慰めとなったでしょうか。
 
その血により私たちは罪から解放されました。それほどに神は私たちを愛してくれました。神の国に住まわせてくださり、神に仕える祭司としてくださいました。なんだか、プロテスタントのポリシーに呼応しているようにも見えます。あるいは本当にプロテスタントの合い言葉の根拠となっていたのでしょうか。
 
この方は、突き刺された方です。私たちが突き刺したと言ったほうがよいでしょう。この視点はどうしても必要です。この思いを基底において、主を仰ぎ見ているでしょうか。主は、時の下に制限を受けているような方ではありません。なにしろ全能者なのですから。初めと終わりの区別もなく、初めでもあり終わりでもある、時間をも自由に操る方です。
 
しかし、罠があります。人間がこのような言い回しによって、神を規定したつもりになってはならないということです。どんなに神を崇め称えようとも、人間が神を全能だと呼ぶときに、その呼んだ自分のほうを上位に置くような罠に陥ってしまうのです。ロジックに過ぎなくとも、そのロジックが人間を傲慢にさせます。真に神を称える言葉を知りたいと思います。


Takapan
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