クライマックスの味わい方

チア・シード

黙示録19:11-21   


バビロンが滅亡し、それを象徴する女が焼き尽くされました。ローマ帝国がそこに重ねられていることは明らかです。それで天でハレルヤの大合唱が始まり、小羊の婚礼の祝宴が仕度されます。しかしサタンがいなくなった訳ではありません。黙示録は幾度も敵が倒されながらも、本当の終わりはなかなかやってきません。
 
ヨハネはなおも、天が開かれているのを見ます。そこに見えたのは白い馬でした。忠実あるいは真実と呼ばれる方がその馬に乗っています。髪の言葉がその身にまとわれ、口には剣を持っているなどと、オカルトチックな描写が続きます。しかし語る言葉が力となってはたらくと理解することもできます。この方がキリストであると解されています。
 
紙の怒りがこの方により作用するのです。ヨハネは「王の王、主の主」と名の刻まれた衣と腿を目撃しています。なんとも酷い場面がこれからも続きます。太陽の中に一人の天使が立っており、鳥に命じて、神の大宴会にて世の人間の肉を食らえと言います。すでに白い馬に乗るキリストの口から及ぶ剣により、そうした面々に倒されています。
 
その肉が鳥により始末されます。そして最後に獣と王の軍勢が集結して向かってきます。だが獣は偽預言者もろとも捕らえられ、生きながらにして人硫黄の池に投げ込まれたというのです。ほかはキリストの口の剣で殺され、鳥にその肉が食い果てられるに至りました。この後、終末の出来事はクライマックスを迎えます。
 
竜なるサタンが千年間閉じ込められ、人々が復活し、第一の復活と呼ばれるものに与ったら、第二の死は迎えることがなく、千年後サタンが牢獄から出て来るのですが、いよいよ火と硫黄の池に投げ入れられてしまいます。裁きにより第二の死がもたらされると、ついに新天地が現れる、こういった具合です。
 
この幻を見たヨハネは、どこまで忠実に見たものを記すことができたのでしょうか。そして私たちは、どこまでそれを適切に読み取っているのでしょうか。言葉を介しての情報の伝達は非常に曖昧で確実性がありません。黙示録を、自分好みで読み解いたと思い込む危険性を避ける必要があります。いつかその真実を体験するまで。


Takapan
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