主にあって労苦したのか
チア・シード
黙示録14:13
「さて、第七の天使がラッパを吹いた」(11:15)と場面が展開してから、いろいろなことが相変わらず起こるものの、事態はクライマックスへ向けて走り出します。気づくのは、各場面がしばしば「また」で始まっていることです。一つひとつの出来事が必ずしも「線」でつながっているわけではなく、別々に起こっているのだと分かります。
Aが起こったからBとなった、式の流れを感じさせず、ヨハネがこれらの幻を見たのが、偶々首を回して目に飛び込んだ順に記されている、という風なのです。あるいは、夢で見たものが断片的に思い出される、と称した方が的確でしょうか。「それから」「この後」とある方がむしろ珍しく、「また」でパラパラと情景が映し出されます。
この風景の中に、小羊の姿が見えました。小羊らの名を刻む十四万四千人の者たちの新しい歌が響き、三人の天使の言葉が聞こえてきます。「神の裁きの時が来た」(14:7)のであり、偶像を礼拝する者と神を礼拝する者とが、きれいに分けられます。「イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たち」(14:12)は、ここまで忍耐してきました。
ヨハネは、迫害の中でイエスを信じ抜いた人々へ、精一杯の慰めの言葉を贈ります。「また」と、これらの情景の故に、というわけではないにしろ、これらのメッセージを重ねながら、天からの声をヨハネは聞きます。ヨハネが書き記すべき神の言葉が告げられます。「今から後、主にあって死ぬ人は幸いである」と。この「今」とはいつのことでしょう。
ヨハネの示す出来事が起こる時か。もちろんそれもありますが、この黙示録が啓かれてそれを受け容れた私たちのこの「今」でもあるでしょう。神の霊がさらに告げます。先の天の声に、そのとおり、と肯定した上で、「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」と。私たちの行いはそうした労苦に値するでしょうか。