死にゆく者に希望を与えるメッセージ

チア・シード

黙示録14:13   


今から主にあって死ぬ死者。幸いなりと告げる対象はこれです。ここは新共同訳もフランシスコ会訳も、カトリックの息のかかった訳は「主に結ばれて」と訳して、意味を限定してしまっています。英語のinに相当する語にそこまで過大な期待を背負わせるわけにはゆきません。
 
ヨハネはこれを、天からの声として聞いているのですが、聞いたその時には意味が分からなかったのではないでしょうか。後にこれを書き記している時に、彼なりにですが、意味を解するのです。このタイムラグは、私たち読者は普通意識しませんが、現実にはヨハネが、思い起こして筆記していることを、時に考えてみるとよいかと思います。
 
臨場感の描写も、実のところ想起に基づくという事実は、考えてみれば当たり前のことなのですが、出来事が解釈を経て記述されていくテキスト、それを読者は恰もまさに起こったその場の出来事であるかのように理解して読むという、解釈の構図を反省してみることによって、そもそも聖書の記述をどのように捉えるとよいのか、ひとつのヒントになるでしょう。
 
ヨハネは天からの声のようにして聞きました。霊もまた、そうだと付け加えるのを聞きました。主にあって死ぬ死者は、労苦から解放されるであろう。そして休息を与えられることになるだろう。その行いがついてくるからだ。霊が言ったことを、新共同訳は報いだと解釈しています。そうには違いないのですが、単純に報いと表現してよいものでしょうか。
 
行いが、最終的に神の前に出るところについていく、と言っています。このイメージは捨てずに保持しておくべきですが、しかし行いが救うかのような表現に気づくと、プロテスタント信徒としては少々戸惑いを覚えるかもしれません。救いとは何なにか、問い直さなければならなくなるからです。黙示録の描く救いのレベルは、また別の論理があるのかもしれません。
 
迫害の中、不条理な世界に苦しむ信徒たち。そこに希望のメッセージを届けなければならないとヨハネは感じていたに違いありません。それを自分の使命と覚え、苦難の中に同胞たちを励ましたい。この要求が切実であって、のほほんと平和にぼけているような時代の者、信教の自由といったものをぬるま湯のように感じている者とは意識が違うと考えたいのです。
 
当時の教会も、これを肝に銘じて、歯を食いしばって生きていた、あるいは死んでいった、という厳しい状況を、少しでも想像してみます。信仰を捨ててはならない。希望を失ってはならない。今の労は、もうあなたたちを支配し続けない。主に留まっていよ。主の内にいよ。主にあっての死は、第二の死とはならないのだから。それは、今は無縁なのでしょうか。


Takapan
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