神の言葉を食べる

チア・シード

黙示録10:8-11   


黙示録には大きなストーリーがあります。そして場面がその中に位置しているにしろ、福音書のようにその流れや関連を定めようと調べていくことには、かなり無理が伴うと思われます。巻物を持つ天使が現れ、今こそ神の業が成就するのだとするとき、天の声が響いた、この程度を抑えつつ、今日の聖書箇所を味わってみましょう。
 
さあ行け。つまり、行動を起こせ。天の声がヨハネに命じます。聞くばかりではなく、あなたが何かをなすのです。それは為すことでもあり、成すことでもあります。礼拝でおとなしく座って説教を聞いている、それも大切なことですが、そこから先があります。そこからあなたは何をするのですか。ここでヨハネは巻物を受け取ります。
 
そもそも夢か幻の中の出来事です。事の順序や因果関係を求めるのは難しいかもしれません。矛盾ではないかと文句を言うのもお門違いでしょう。この天使、海と地の上に立つといいますから巨大なイメージですが、その手に巻物を持っています。小さな巻物ではありますが、それをヨハネが受け取ったという図式はちょっと想像しにくい気がします。
 
巻物をください。ヨハネが律儀に願い出る言葉まで記してあります。その返事は、取って食べよ、というものでした。なんだか支離滅裂ですが、神の言葉がそこに書いてあるに違いありませんから、それを食べろということには、深い意味がこめられているとして捉えたほうがよいようです。聖書のような神の言葉は、食べるものなのです。
 
私たちは、聖書を食べているでしょうか。自分の体の中に神の言葉を呑み込んで、消化し、吸収を果たしているでしょうか。上っ面のみ眺めて撫でて、楽しんでいるばかりで終わってはいないでしょうか。自分自身がなんら影響を受けないままに、従って自分はまるで変わらないままに、聖書の言葉を弄んではいないか、考えさせられます。
 
食べたヨハネは、口には蜜のようにそれは甘いと思いましたが、腹は苦くなりました。天使は与えるときに、腹には苦いが、口には蜜のように甘い、と言っていました。順序が逆転するのは、ユダヤ文学のレトリックとしてよくあることですが、これは神の側は結局甘いぞと与えつつも、人の側では結局苦く感じて終わったという事態を表してもいます。
 
神の与える秩序と、ヒトの受ける受ける秩序との食い違いは、確かにあることです。価値観が違ってくるのです。そしてヨハネは、預言すべしと命じられます。改めて、すべての人間へ向けて、神の言葉を語れと命じられます。与えられるままに食べた小さな巻物、それは全人類の運命に関わる大きな力と権威をもった、神からの命の言葉だったのです。


Takapan
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