ウクライナとロシア

チア・シード

詩編96:1-9   


日本からは遠い。だが、ウクライナ国内へ侵攻し、破壊と殺戮を繰り返すロシア軍のなすことが、次々と映像で伝えられてきます。心が痛みますが、当地の人々は心どころではありません。肩がぶつかったと因縁をつけて殴り殺すようなことを正義だと主張するなど、信じられない思いです。上からの命令のままに攻撃する兵士の精神状態も懸念されます。
 
誰にも、何のよいこともありません。だのに、誰も止められません。こうしている間にも、人が殺され、建物も文化も経済も壊されていきます。このとき、私は歌えるのでしょうか。主に歌い、その名を称えることができるのでしょうか。主の栄光をこの国に語り伝えることができるのでしょうか。いえ、これまでも世界各地で、同様のことはあったのです。
 
ギリシア正教の町に、福岡から木村公一さんがいち早く足を踏み入れていたといいます。祈りの上に、行動がとれる人に敬服の意を表したいと思います。主は賛美される方だというのは、これだけの痛みと苦しみの上にもたらされたものなのだと改めて知ります。そう、イスラエルの信仰は、こうした破壊と絶望の上にこそ、生まれたものだったのです。
 
壊滅的な損害と残虐な殺害、打ちのめされた心の上に、主を見上げる信仰と賛美があったということを、やっと知りました。次々と映し出される映像に、私たちは次第に慣れてさえきます。すべて他人事に過ぎず、自ら痛むこともありません。少しばかり心が痛むなどというポーズをとっておけば、自分は安全で平和に暮らしていける現実を覚ります。
 
パンが値上がりして困る、というくらいの不幸を口にしておけば、被害者ぶってさえいられます。栄光を主に帰せよ、主にひれ伏せ。砲弾を避けようとひれ伏している人々に対して、私たちは何を言うことができるでしょう。国々に主の栄光を語り伝えよ。ウクライナに、そしてロシアに伝えよ、という読み方を、故意に避けていないでしょうか。
 
かの国へも伝えねばならないのです。それから、自分と自分の隣り人のいるこの国へ、語り伝えねばならないのです。何を。主の栄光を。いや、その主の栄光とは何なのでしょうか。ヨハネ伝が繰り返して示していたように、主の栄光とは、イエス・キリストであり、その十字架の姿だったのではなかったか、とようやく気づかされます。


Takapan
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