切り取った枠の中で

チア・シード

詩編95:3-7   


詩の途中だけを切り取って味わってよいのかどうか、意見が出てくることでしょう。トリミングすることにより、ある特別な考えが際立つことがあります。誤解を招く可能性もあるでしょう。この詩も、このファインダーの外側では、不実なイスラエルの民への非難がずつと続いています。かつて歴史上、民が神に懐いた悪しき思いが晒されます。
 
しかし詩の前半は機嫌良く、力強いものがあります。主は大いなる神であると称え、全地を以てしても、それを造られた主は偉大であると賛美します。人は、ひれ伏すしかありません。身を低くして、立場を弁えるばかりである。己れを造った方の前です。跪き屈むしかないはずです。この大自然をも超える存在がそこにある。創造主である、神。
 
主は私の飼い主。私たちはその羊。主の牧場の羊であり、主の御手の中にある羊です。主に従い、ついていく。主の囲いの内に導かれるべき羊です。けれども、本当のところ、それができていなかったわけです。詩人は決して能天気でいる訳ではありません。創造主の前に身を屈めるとは当然のことのようですが、人は実は忘れてしまっていたのです。
 
いえ、私が厚かましくも膨れ上がり、主を自らの判断の下に低く従えているつもりでいたのではないでしょうか。ここはよく振り返り、考えてみましょう。振り返る機会を持ちましょう。「さあ」と呼びかけるからには、共に集う仲間がいます。私は一人ではありません。共に主に背を向けていた、あるいは背を向けかねない危うい関係をもつ仲間です。
 
聖書の節の分け方の偶然のトリックなのか、今回の切り取り方では、「あなたがたは今日、主の声を聞きなさい」で終わっています。ここから後の不誠実の発端ですが、大いなる主を称え、さあひれ伏そうと呼びかけつつ、今日聞け、と言うのです。一体これまで聞いていたのか。否、聞いていない。ではいつ聞くのか。まさに、今日、いまなのです。


Takapan
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