そこに私もいた

チア・シード

詩編95:1-11   


喜びの声を上げ、歌おう。私が一人そうするのではなくて、友よ一緒にそうしようではないか。主を称える言葉を並べた後に、「あなたがたは今日、主の声を聞きなさい」と同胞に呼びかけます。いえ、これは主が民に言った、とするのが相応しいでしょぅか。「今日」は、出会ったその日であり、この詩に人が触れた今です。誰にでも当てはまります。
 
メリバやマサの出来事は、イスラエルの歴史の中の出来事です。イスラエルのあの事件の中に、私がいるはずはありません。この詩を読むすべての人がそのような経験をしたわけではありません。この歴史を背負っているような気がしても、「あなたがた」と呼ばれる筋合いはありません。あの歴史の中の人々は、私とは関係がありません。
 
それはそれで真実に違いありません。現代の私たち人間は特に、そのような捉え方のみが正しいと見なすようになってしまいました。他の人間や歴史上の人物がどうであろうと、今ここにいるこの私は、それとは別だ、と言うのです。聖書の言葉が命となるのは、そのような考え方をする場面ではありません。それが私の体験的な真実です。
 
メリバに私はいたのです。マサの荒れ野で、モーセに石を投げようとしたのです。水が欲しいという要求は、決して無理なものではありませんでしたが、エジプトへ戻りたいとまで言う必要はありませんでした。それは先祖の言ったことではありましたが、私もこの歴史をこの身に背負っている、と思えるかどうかが鍵なのです。
 
主の業を見ていながら主を試みたのであれば、今の私もまた同じことをしているに違いないのです。それは「心の迷える民」であることを暴露するものでした。この荒れ野で逆らったあの昔の面々は、結局約束の地に足を踏み入れることはありませんでした。主がそのような者たちを土地には入れない、と誓ったからです。
 
この呪いにも見える誓いで以て、この詩は結ばれます。なんとも後味の悪い幕切れです。初めに高らかに主を称えるところから窺えた勢いは、いったいどうなったのでしょう。己れを適切に深いところまで見よ、という戒めを、私たちにもたらそうとしたのでしょうか。ひれ伏して主の前にひざまずくことで、今日主の声を聞こうではありませんか。


Takapan
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