あなたの敵は私の敵か

チア・シード

詩編92:1-16   


楽器を奏で主の御名をほめ歌うことは、「なんと喜ばしいことか」。朝に夜に、主の「まことを告げ知らせる」のです。これは、「賛歌」だと題と共に「安息日のために」という言葉が添えられています。私たちは安息日のために、こうして主を称えるという思いを、もっと強く抱きたいものです。安息日は、主を拝し主を喜ぶものでありたいものです。
 
その主の働きを私は喜び、主の計らいの深さに驚きます。ここまではいい。主への賛美です。私はどこまでも主を喜び、主を賛美します。けれどもそれに続いて、「思慮なき者はそれを知らず/愚かな者は悟ろうともしない」という曲がり角を迎えます。ここから詩人は目を転じて、「悪しき者」の方へと向かいます。いまそれがはびこっているのです。
 
「野の草のように茂り」「花を咲かせても」というのは、仮の話ではありません。この世で一時的に栄えているように見えても、「彼らは永遠に滅ぼされる」のです。注目すべきは、詩人がこれを、自分にとっての敵とは言わず、「あなたの敵」と呼んでいることです。詩人から見て「悪しき者」とは、即ち「神の敵」であるというのです。
 
考えようによっては、これは恐ろしいことです。あなたがそれを成敗する、そう言うことは、私がやっつけると言うよりもましだとはしても、どうしてもそれは、私の目に映る「敵」であるのです。私は必ず「神の味方」となっています。この論理が表に立つとき、己れの正義が勝つべきこと、私は何もしても正しいのだ、ということになりかねせん。
 
詩は最後に「正しき人」に言及します。「主の家に植えられ/我らの神の庭で茂る」とは、詩編1:3を思い起こさせる表現です。「命豊か」であり、「主はまっすぐな方/わが岩、御もとには不正がない」と言います。自己義認の正当化を人間はやりがちなことを戒めたいものです。「新しい油で私を潤した」ことが暴走へとつながりませんように。


Takapan
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