詩編の醍醐味

チア・シード

詩編92:1-16   


詩編には、人の思いがうたわれていることも多く、喜びや悲しみ、時には怨念のようなものさえ、そこには現れます。しかし王道は、主を賛美することでしょう。主は素晴らしい、と繰り返すのです。たとえようもない方を、それでもなにか示そうと努めるために、言葉にしようとします。でも人間の業は拙くて、大した言葉が出てこないものです。
 
実に貧困なボキャブラリーだと嘆くしかありませんが、それでも心は主を称えざるを得ません。ここに主の業を思う詩人の心が豊かに溢れているのを微笑ましくさえ感じるのは、私もまた、詩人と同じように、何か主を称えたいと願いつつも全くできていないよなぁと失笑しているからでしょうか。詩人も自分と同じだと共感することはとても大切です。
 
でもとにかく主の計らい、主の業を知ることしだけでも、主の恵みの中にあると自覚はできます。愚かな者はそれを悟ろうともしないのです。どんなに悪しき者がこの世で栄えたように見えたとしても、それは続くことはありません。むしろ永遠の滅びとなるのです。敵というものにしきりに言及し、この世で恰も勝っているような者を標的にします。
 
それが全く気にならないというわけではないのですが、主はそういう輩を遙かに超えています。そして主はこの私の栄誉を回復してくださり、力で満たしてくだすることを詩人のようにうたいましょう。正しい人を、主は必ず栄えさせてくださいます。永遠にそれは続きます。なつめやしに喩えられ、実を豊かに結ぶのだという確信が与えられます。
 
老いてなお青々とするといった望みに満ちた表現を、よくぞ並べてくるものです。このような形で主の業に感謝し、主を称えます。詩編では主ご自身を形容しなくても、主を称えることの素晴らしさを教えてくれます。人の思いは感情からでも信仰へと展開でき、永遠の希望が生まれることを教えてくれます。詩編はなんと喜ばしいうたなのでしょう。


Takapan
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