安息日とは何か

チア・シード

詩編92:1-6   


主の働き、その業を詩人は喜んでいます。主の計らいの深さを挙げます。でも主にとっては計らいも業も結局同じことでしょう。主の思いはそのままこの世界では現実となるのですから。詩の後半では、愚か者、悪しき者が神を知ろうとしないこと、それは滅びに至ることを詠っていますが、今回は、悪しき者に言及する直前までを拾ってみます。
 
詩人はこの詩を、安息日のために詠っています。何もすることがない。何もする必要がない。働くことができない、それが安息日です。実に奇妙な生活です。主が天地創造の時、7日目に休んだという記録に基づくことのようですが、それだけの説明で、果たして私たちは納得できるでしょうか。だからどうだという気がしませんか。
 
この日、人は世界に対して何もしないことになります。けれども、世界は壊れることがありません。何事もなかったかのように、一日が過ぎていくだけです。つまり、人は何もしないのに、世界は何も変わらないわけで、人は自分の無力さを痛感させられるのではないでしょぅか。世界を動かしているのは、人ではないということを思い知らされます。
 
それは神にほかなりません。神がちゃんとこの宇宙と人の世を支配していることを、私たちは安息日に目の当たりにします。このとき、人は何をするのでしょうか。神を褒め称えるよりほかありません。主の名を褒め歌い、主のまことを称えます。安息日に、なぜか口に出して語ることは禁じられていないのです。舌は休まなくてよいようになっています。
 
賛美の歌は歌えます。主を称えることはできるのです。琴に合わせて歌うというので、どうやら、琴も弾いてよいようです。こうして、安息日は人を見るのではなく、神を知る機会だと捉えてはどうでしょうか。私の思いは、人のすることへ向かうのではなく、主を見上げ、主へと心が向き、そこに心を重ねていくようになります。
 
ああ、この世界は、主よ、あなたによって創られたのでした。あなたの栄光が輝いているではありませんか。主の思いが感じられます。主の業が目に入ります。そして心が拡がっていきます。そのような時を過ごしていますか。礼拝へ行って人を見、人に喜んだり怒ったりして、儀式さえ済めばお役目終了、だなんてしてませんか。


Takapan
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