救いの約束

チア・シード

詩編91:11-16   


神の陰に宿る人を神は救う、それを告げる詩です。破滅の疫病からも救う(91:3 聖書協会共同訳と注)は新共同訳は別の訳となっていますが、こちらでも「暗黒の中を行く疫病も」(91:6)というフレーズがあります。2020年を襲ったパンデミックの世界の現実にどう響くか考えさせる言葉となりました。亡くなった方が救われなかったなどと即断しませんように。
 
その詩の後部を味わいます。禍や病が近づかないという宣言の後からです。それは主が御使いに命じて、あなたの道を守るからだ、といいます。守りのからくりを説明しています。宣教に先立ちイエスを悪魔が誘惑しました。その時に、飛び降りても死なないと聖書にあるぜと唆して迫ったのは、この詩編の箇所でした。
 
聖書の言葉そのものであっても、相応しからぬ方法で引用し、適用してしまう可能性があることを教えます。私たちも当然そうなのです。自分では聖書に従ったつもりでも、自分本位な理解で、的を外して適用することには自ら気づくことがありません。悪魔と同じことをするという厳しい事実を弁えておくとおかないとでは大きな違いとなるでしょう。
 
この主の守りというものについては、理由らしきものがあるように見受けられます。「彼は私を慕う」から助けると言い、「わたしの名を知る者だから」守ろうと言うのです。何らかの行為によって報いを与えるとは言いにくく、慕う思いは信頼に基づき、名を知るというのはさらに根源的な信仰の出来事に直結するのではないかと思います。
 
この「知る」というのはただの知識でもないし、聞いたことがあるというようなレベルでもありません。深く人格的に交わること、体験すること、時に性交渉の関係に入ることまでも含む概念です。これを「出会う」体験として捉えてみましょう。出会うとは、それにより自分自身が変革される事件です。影響を受け、変えられるという体験になります。
 
旧約の詩では、このくらいの表し方となりますが、新約になると明確にイエス・キリストとの出会いのイメージが浮かび上がります。福音書に登場する人々は、イエスと出会って、癒されもしたし、信仰も与えられていきました。旧約の世界では、呼び求めると主が答え、苦難の中にあっても主が共にいる、という経験を詩人はすることになります。
 
苦難から助け出し、誉れを与えると約束する主の言葉もここにあります。救いは長寿という報いで表されますが、旧約の長寿は、新約では永遠の命というキーワードで置き換えられる場合があります。単純にそうは決めつけないにしても、新約ではそこにイエス・キリストの十字架と復活がその鍵になっています。私たちが出会うのは、この場面です。


Takapan
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