人生は長さのみに非ず

チア・シード

詩編90:1-17   


「モーセの詩」というのは珍しい。これひとつだけです。標題には「祈り。神の人モーセの詩」と書かれています。美しいスタートです。本当にモーセが書き遺したかどうか分かりませんが、律法の記者でありイスラエルの民をエジプトに導き出した伝説の祖になぞらえての詩であるとするなら、味わい深いものがあります。
 
「モーセが死んだとき、百二十歳であった」(申命記34:17)というけれども、「私たちのよわいは七十年/健やかであっても八十年」と歌うのはどうしてでしょうか。モーセがまだ若いうちでの作詩なのでしょうか。「人を塵に帰らせる」主は、「千年といえど過ぎ去った一日のよう」に見る方である、とも書かれています。
 
主は「人を死の眠りに落とさせる」のですから、人の命は主の手に握られています。これを人から見れば、主の怒りに私たちは消え入るし、主の憤りに恐れおののくことになります。人には「過ち」があるのです。主の目に隠されることはありません。このようにして、人の命は、罪の中に消されてしまうことでしょう。
 
「誇れるものは労苦と災い」でしかない、というのは、人生観としては悲観的に過ぎるかもしれません。が、果たしてモーセはどうだったでしょうか。ひたすら主から言葉を受け、それを民に伝えたモーセ。神と民との間で板挟みになっていました。時に怒りに走り、ついに主から約束の地に入ることを赦されず、死んでしまうなど、報われない人でした。
 
「残りの日々を数えるすべを教え/知恵ある心を私たちに与えてください」と謙虚に歌います。「憐れんでください」「喜ばせてください」「私たちの手の働きを力あるものにしてください」と、主に願います。ただ長い人生であればよいのではなく、人はそこに如何に充実したものを見て、知るか。神に満たしていただけるか。それが大切なことなのです。


Takapan
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