唯一のモーセの詩

チア・シード

詩編90:1-7   


「神の人モーセの詩」。こんな言葉付せられているのは、この詩だけです。モーセの詩といえば、申命記33章に、イスラエルの各民族へ向けた祝福の言葉が思い起こされます。今回は、まず「祈り」と書かれています。モーセが神へ向けて発した言葉なのです。「わが主よ」から詩は始まり、永遠の神であり、イスラエルの住まいはここにしかないとします。
 
主の業により世界は造られ、いまのように置かれました。主が人を造り、私が生まれるに至りました。そう、私にとって、自分の存在は、そこにまで「至った」ということを弁えておく必要があります。但し、人は塵から造られました。「人の子らよ、帰れ」という言葉一つで、人は塵に帰ることになってしまいます。儚い存在です。
 
神の目からすれば、千年も一日に過ぎません。夜回りの一度の仕事に相当します。人の命も、草の如く小さなものです。一日でしおれるとは極端ですが、それくらいの短さであるということでしょう。主の前には、人間など小さすぎて勝負になりません。主がわずかでも怒れば、人は耐えることができないのです。
 
そうして詩は、神の怒りの力へと注目してゆき、むしろ憐れみを、と願うようになります。苦しみと災いの日々も、悠久の神の時間の中で慰められることを願うのです。モーセが書いた詩だとはなかなか信じられませんが、だとしても、120年を生きたモーセの人生を詩人はよくよく思い、モーセになりきっているものだと驚きます。
 
イスラエルの民の世話に生涯を費やしたモーセであっても、目と心はひたすら神へ向かっていたというように、イスラエルの子孫は推測していたに違いありません。時の流れを強く意識し、滅び行くような人間の一生に、喜びと希望を与えてください、と主に祈る信仰が、ここにあります。民族の基礎を築いたモーセは、信仰者の指針でありました。


Takapan
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