残りのすべての日々

チア・シード

詩編90:1-17   


残りの日々を数えると悲しくなります。人の一生は、なんと短いことでしょう。自分というすべてが、やがて消える。それも、数えられるほどの先にある限界により、時間の延長が阻まれるのです。日々確実に、目の前にそれが迫ってきています。けれども、すべての日々を愉しむことを、詩人は望みます。そこに喜びがありますように。
 
編者は、これをモーセの詩であるとしています。モーセの人生になぞらえるならば、私たちはこの詩の心情が、生き生きと想像しやすいのです。荒れ野の山々を見上げて、この世界を創造した神を思います。エジプトから何十万という民を導く役割を、紙はモーセに与えられました。しかしその民も、数人を除き、途絶えてしまいます。
 
この死は、主の怒りの故であるように描かれています。しかし私たちの魂胆が神の前に晒されるならば、それは悉く万死に値するものでしょう。七、八十年と数えているこの人生は、モーセにとり瞬く間であるのだと言いますが、十分神に赦された時間であったように思われます。モーセは120歳の人生を全うしたのですから、長生きでした。
 
もちろん、神の悠久の時と比べれば、それはほんの一瞬であるに違いありません。人生を考える上で詩人は、残りの日々をどう数えたらよいのかと問うています。それを喜ぶものとしたいのです。これまでの苦労、実際モーセは波乱に富んだ人生をそれまで歩まされて来たのですから、楽しみを与えてほしいと願うばかりなのです。
 
晩年が穏やかなものであるように、とは人の素朴な願望でしょう。これまでこんなに労して苦しんできたのだから、もうよろしいでしょう、良い生涯の終わりを下さいよ、とでも言いたいのです。神が公平とバランスを配慮すべきならそれでいいのですが、人間の思う公平と神の見方との違いがきっとあります。聖書は人の判断に疑問をぶつけてきます。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります