信頼関係の内に

チア・シード

詩編8:1-10   


タイトルにあるギティトなるものは、楽器の名前だそうです。ダビデの詩だといいますが、楽器の名手とも伝えられるダビデは、当時誰もが認めるシンガーソングライターではなかったでしょうか。主を称える思いが、一つひとつ言葉になり、メロディーとなります。人は地上にしかいませんが、地から見える景色から、天上のことを考えます。
 
この「考える」ということが人にはできる、パスカルではありませんが、そこに焦点を当てて見ます。さらに、この人自身を、神がどのように見ているかということまで考えることにしましょう。確かにそれは想像に過ぎず、決定することはできません。しかし凡そ人が人に向かうときからして、すべて想像ということではないかと開き直ってみます。
 
ただ、他者と向き合うということは、その人の思いを決めつけることはできず、せいぜい推測以上のものにはなりません。思考の中に留まるだけなのですが、互いに自分がどのように見られているかを配慮しながら行動しているように思われるのです。ですからここでダビデが、人とは何者なのかと問うことに、大きな意味を見出すべきだと思います。
 
この問いがすでに、神の目から、自分がどのように見られているかということを考えているからこそ生まれるものだからです。そして神への信頼の上に告げていることを感じます。神の創造した世界を人に任せるという信頼が、逆に神から寄せられていることも分かります。そしてそう人が口にすること自体、人が神を信頼していることにもなります。
 
詩編は、須くこうした、人と神との間の信頼の梯の上に、言葉が紡ぎ出されたものだと言ってもよいような気がします。この地からは見ることのできない世界にも、強い信頼を置くのです。そんなものはないとする唯物論も、それが抽象的に放たれる限り、物ではない説を唱えていることになるわけで、破綻していると見られても仕方がないのです。
 
人の想像自体がそのままに実現するわけではありません。それは常に画餅に過ぎないかもしれません。でも、そのイメージは許されています。そのため豊かな世界を考えることができます。神に僅かに劣る者と指摘するその地位は、誇るためのものではなく、この許しの元にある信頼関係の内にあることを証ししていると考えたいものです。


Takapan
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