人としての弁え

チア・シード

詩編8:1-10   


人とは何者なのか。神の心に留めてもらえ、神の顧みを豊かに受けるこの「有り難さ」。おそらくそれは私のこと。私はどうしてこんなに恵まれているのでしょうか。いえ、辛いことはあります。苦しいこともあります。どうしてこんな目に遭わなければならないのかと嘆くこともしきりです。それでも、私はこんなに恵まれているのだということに気がつきます。
 
それでも嘆くことができるからです。生きているからです。生かされているからです。今私が、辛いという言葉を出すことができるのは、私がさしあたり今生きているからです。ダビデの詩ですが、ギディトに合わせるというのは、恐らくぶどう酒の酒ぶねでの作業歌であろうとも言われますが、労働の厳しさの中に、生きている喜びを噛みしめているかのようです。
 
主に目を留められている。この意識は、もつかもたないかの話にほかなりません。私が主の視線に気づくか気づかないか。実際目を留めている主の眼差しがあって、当人がそれを知らないならば不安でしょう。親が見守っているとき、小さな子はそのことに気づいていないと不安です。親が見守っていると分かると、子どもは大胆に冒険ができます。
 
たとえいま親が見ていることを確認していなくても、親がきっと見守っていてくれている、という確信がある子は、堂々と振る舞います。びくびくせず、この世界は信用に足るということを学習しながら、いざというときにはサッと親が登場して自分を助けてくれるのをただ信頼していることができます。親の視線を信じられない子どもは不安でたまりません。
 
人も、神に見守られていると信頼しているならば、心強いものです。これが信仰です。その関係が、私たちが生きる勇気となります。小さな子の場合には、まず親が子を見守っているという前提があったはずですが、神の愛がまず先にあるという前提が、信仰です。私を取り囲むすべての存在者が私にとり恵みとなり、世界との信頼関係が築かれることになります。
 
全世界は信頼に足るものだ、ということを理屈抜きに体験し、体感していくことが、人として健全な成長のためには必要だと言われます。子どもはそうして、生きる力を得、育つのです。但し、その同じ人が自分を神と思いなしてしまう怖さも同時にあります。思いのままに事態が動くのを見て、勘違いしてしまうのです。
 
あるいは、神という存在を掲げながらも、神が自分の思いの実現をサポートするためのものとして利用するようなこともあるでしょう。私のしもべとして神は機能する。私の願いは神が叶えてくれる。あらあら、私の思った通りにどうしてならないのだろう。神はダメじゃないか。しっかりしてくれ。そうそう、私の言うことを聞いていればよいのだ……。
 
神は天上、私は下の地にいる。この構造を弁えておかなければなりません。その前提の下で初めて恵みというものがあり、主の愛に対する適切な関係が成り立ちます。私は神に任された仕事を与えられ、今生かされていて、神を思うことが現にできます。これはまさに恵みです。友よ、同じ人として、酒ぶねの作業をしながら、共に歌おうではありませんか。


Takapan
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