広島の日に神の声を聞こう
チア・シード
詩編85:1-14
「主なる神が何を語られるかを聞こう。/主は平和を語られる」。聖書は神の言葉です。そう受け止めている者が、キリスト者です。さらにこの詩編は、旧約聖書と私たちが呼ぶもののひとつです。ユダヤ教文化もこれをどう尊重しており、ひとつの神の言葉だと見ていると思います。その文化の中心であるイスラエルにも、この平和が語られています。
今日、広島は原爆投下から80年を数えます。ちょうど「平和宣言」が告げられています。世界の為政者へと問いかける、広島市長の言葉でした。「ヒロシマの心」を感じてほしいという訴えでした。ノーベル平和賞に値するものと世界のブレインが、昨年日本原水爆被害者団体協議会を認めました。今、平和記念式典が行われているのです。
人間の良心が放つ、精一杯の声が、子どもたちを通しても伝えられました。ところで神の力は、人間を遥かに超えているのではなかったでしょうか。人の心を打つこれらの式典の言葉よりも、神の言葉の方が無力に過ぎぬ、ということがあり得るのでしょうか。しかし世界にこの神の声は響きません。いえ、キリスト者の魂にも響いているのか疑われます。
コラの子たちの詩だといいます。神の怒りを喜びへと変えてくださることを願っています。民が「愚かさに戻らないように」を主が語る平和の言葉を、私たちキリスト者は救いとして受け容れています。それは「慈しみとまことは出会い/義と平和が口づけする」という姿でした。そして「義は主の前を進み/主の歩まれる道を備える」と結ばれました。
私たちは問われています。いったい本当にこの主を信じているのか、と。確かに人間は、平和の実現へと努めることを止めてはなりません。しかし、聖書を神の言葉と信じていると口にする私たちが、いつしか神のもたらす平和について、現実味のないものだと軽んじていやしないか、吟味すべきです。主なる神が何を語られるか、聞かねばなりません。