苦しみの第一歩

チア・シード

詩編69:34-37   


私を救ってください。詩はこの切迫した叫びから始まります。恥辱を受け苦しんでいるけれども、確かに主の前に立っています。まだ救いは与えられていないのですが、その中でまさにその時に神を賛美するのです。傍目には狂っているかのようにさえ見えます。マゾヒズムの極致であるかのように見られても仕方がないほどです。
 
そこでいま光を当てます。ここに貧しい人がいるのです。捕らわれた民は貧しくされていますが、主はその訴えに耳を傾けるというのです。私は捕らわれて貧しい。この立ち位置がないと、この詩は虚偽となってしまいます。本当にそうでしょうか。むしろ私は、誰かを捕らえて動けなくして、虐げているのではありますまいか。
 
このことを疑わずに、この詩を読むことはできないと思うのです。私が神を求めるという心は、私の苦しみによることになりますが、私は気づかないうちにも、他人を抑圧し、苦しめているに違いないのです。このことを悩み苦しむ私。そのところからスタートするというのはどうでしよう。錯綜した構造ですが、これを通らずして神を賛美することはできません。
 
この思いは、信仰の本質であり、前提であるのではないかとさえ思います。キリスト者と称する人は皆そうでしょうか。私はそうでもないような気がします。この思いを以て、神の前に立つ者でありたいと私は願いますし、キリストの名のもとにあるすべての人が、この思いを以て神の前に項垂れるようであってほしいと切実に願います。
 
今は姿なきエルサレムがいつか回復し、神を喜ぶ者・神の救いを受けた者がそこに住むことを信じます。私たちは今キリストにあって、新しいエルサレムを待ち望んでいます。この詩人が見ていたエルサレムは、まさにイスラエルの都としての都市エルサレムであったことでしょう。でも、私はきっと互いに同じ方向を見ているものと思っています。
 
彼らの切なる願いと祈りと、キリストにより塗り替えられた新たな都を幻のように見る私たちは、声を合わせて祈るのです。くれぐれも、その前提が、己れの苦しみと痛みを知った上でのこと、つまり己れはどこまでも加害する者、他人を虐げる者、高慢などうしようもない者だと知った上でのことだと、片時も忘れることがありませんように。


Takapan
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