自ら経験しているからこそ分かる

チア・シード

詩編64:1-11   


自己欺瞞などとして、人は自分を偽っていることがある、ということがあります。故意にそうする場合と、自分では気づいてさえいない場合とがあるような気がします。分かっているからこそ欺瞞なのだ、という理解もふるでしょうが、他者からしか認識されないような実態もあろうかと思います。ダビデは、人の中にあるそうした悪を実によく暴きます。
 
それは、ダビデ自身の内部に、そういうものを見ているからなのかもしれません。剣のような舌に、苦い言葉の矢。外からは見えぬところに刃を隠しもっている、それが人間です。表向きそれはただの「敵の脅威」のようにも見えますが、悪の言葉を数え上げて罠を仕掛けるなど、恰も自分が経験していたかのように、詩は描き上げています。
 
「人には裏側、心には秘めたものがある」と言うからには、自分の中にその存在を知らねばならないのではないでしょうか。ダビデはその自覚があったのだろう、と私は思います。「物陰から罪もない人に射かけようと構え/不意に射かけることに後ろめたさも感じていません」などは、後ろめたさを覚える者だからこその言葉ではないでしょうか。
 
直訳ではこの後ろめたさのところは、「彼らは恐れない」という言葉であると注にありますが、よくぞ意訳してくれたものです。ダビデは目の前に常に神を見ています。神に照らし合わせて己れの言動を計る。これが、悪者にはないと考えています。けれどもそのダビデにさえ、ナタンに指摘されるまで、自分を偽ってしまっていた、あの失態があります。
 
一時の欲情からのバト・シェバへの行為ばかりか、その夫を謀殺までしたのに、預言者ナタンの仄めかしにさえ、何ら気づくことがなかったという事件です。ダビデは自分の弱さをそのとき覚りますが、これがその事件以降の詩なのか、それ以前の詩なのか、それは分かりません。ただ、ここでは神の復讐心の如きものすら感じられる表現を垣間見ます。
 
神の攻撃は、不意に襲ってくるのです。神の方が、ずばりと斬り込んでくるのです。その有様を見て、人々は恐れるだろう、と詩は述べます。人々は、この「神の働きを告げ知らせ/神の業により悟りを得る」でしょう。主の許に逃れ、誇ることができる人は幸いです。それは「心のまっすぐな人」であると言います。主に向かってまっすぐなのです。


Takapan
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