自分探しへの警告

チア・シード

詩編62:1-13   


宗教改革の中心人物であるルターの支えになったはずの詩です。その讃美歌でも力強く取り上げられました。そのせいか、フランシスコ会訳聖書の本詩への注釈は、至って淡泊で、内容については一切触れていません。しかしプロテスタント側にとってはそのポリシーと言ってもよいくらいで、いまも孤独な戦いを強いられた者を支えていると言えるでしょう。
 
タイトルのエドトンとは、ダビデの宮廷音楽担当者の名ですが、ここでは何かしらの音楽を具体的に指しているものと思われます。魂はただ神の前に黙する。神に向けて自ら言いたいことを向けるのが祈りなのではないのはもちろんです。むしろ神からのものを聞く、神から来るものを受ける、そこに揺るぎない生き方の端緒があると言えます。
 
行く手を阻む敵がいます。そこに悪があるのだと詩人は断じます。だから詩人の戦いは、正義の戦いだというのです。繰り返し神の不動さと、それに応じてしっかりと立つ自分を意識するフレーズを謳います。民よ、この神へ信頼を置こうではないか。ダビデ王がイスラエルの民に向けて、共に主の許に集まろうと呼びかけているかのようです。
 
人のはかなさと無力さへ目を向ける、それは敵がそうだ、というばかりではありません。自らを省みるときにも同様に感じるはずです。そこにこそ、信仰の意味があります。私たちが力を揮い、暴力を以て人を従えさせることへの警告が、ここにあるように思われてなりません。略奪を求め、富を願うことで心を亡ぼすことがないように、と告げているかのように。
 
自分たちがそうしたことをやってきたという事実があります。空しい望みをかつてはもっていたのです。そしてそれは、いまの私たちもまさにそうです。自分が必要以上に得をすることで、誰かにしわ寄せがきて、その人を虐げ困らせているという事態が日常的にあるはずです。私たちがただそれに気づいておらず、気づこうともしないだけなのです。
 
このような自分の姿を知ることができるのは、神を見つめることによって与えられる視点に基づきます。神の視点というと語弊がありますが、神を知るとき、私たちは自分の姿を知ることができるということです。自己反省などごまかしです。自分探しはカッコイイようですが、神を見ることで初めて、自分を、自分のつまらなさを知ることができるのです。


Takapan
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