敵は本能寺にあり

チア・シード

詩編55:1-9   


「私の祈りに耳を傾けてください」との思いは誰にでもあるでしょう。しかし「私の願いから身を隠さないでください」というのは尋常ではありません。神に「逃げるな」と言っているようなものです。これはダビデの詩とされています。ダビデはこの詩で、味方のような顔をしていた者が裏切って、自分を窮地に追い込んだことをしきりに訴えます。
 
それを滅ぼしてくれ、と主に向けてさかんに口にするのです。もちろん、恨み辛みに終わることはないし、ただ呪っているのとは違います。主への信頼あればこその訴えだと思います。ダビデは、主に差し向かいになっています。その真摯さが、「隠れるな」という叫びになったのでしょう。こちらを見てください、との切実なアピールです。
 
ダビデはいま、嘆きの中にいます。不安です。死の恐怖がのしかかっている、とも言っています。ここまでダビデが言うのも珍しいことです。「鳩のように翼があれば」敵から逃れることができるのに。敵から身を隠すことができるのに。そうです。身を隠したのは神ではなくダビデの方でした。自分の願望を主に投影していたようなものだったのです。
 
さて、これを他人事として眺めていては、ただの批評家であるに過ぎません。私たちは聖書を命の書として読む者です。私たちにも敵がいます。時に「神の家を群衆と共に歩いた」(15)者です。それが尊大に振舞い、自分を嘲っているのです。教会の中に、気の合わない人がいることは普通避けられませんが、敵がいるとまで思う人がいるでしょうか。
 
しかしいるかもしれません。そのことに気づくかどうか、そこが肝腎です。気づいてしまったら、ダビデのように苦しむことになるでしょう。恐れとおののき、戦慄が走ります。「死の恐怖」は一方では、神と切り離され関係をなくすことを指す可能性があります。まるで神との関係が危ぶまれるような、武者震いをしていたかもしれません。


Takapan
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