逃げつつも敵を見据える

チア・シード

詩編54:1-9   


父サウルの狙いを知るヨナタンは、深い愛でつながったダビデと、今生の別れを告げようとしていました。ダビデは、ペリシテ人の攻撃からケイラの町を救いますが、祭司エブヤタルがダビデを頼って逃げて来たことから、サウルはダビデの行方を知ることになります。ダビデはジフの荒野へ向かいます。実は、ここでヨナタンは最後にダビデに会っています。
 
ギブアにいたサウルへ、ジフの人々が、ダビデが隠れていることを密告しました。そのために、サウルが追って出ました。この詩の背景はこうした情況でした。山一つ隔てて縦走するスリリングな展開となりますが、ペリシテ人がイスラエルに侵入したという知らせが入ってきて、サウルはダビデを追うことをやめて、急遽戻って行きました。
 
ここでジフ人がサウルに情報を与えたということを踏まえての詩だということが表題のように書かれているために、ここまでは歴史書を追いかけました。自分の命を狙う者が結束し、ダビデの命は今や風前の灯でありました。しかしダビデは、自分の前に神を置いていました。神こそ助けです。おそらく天を見上げ、神よ、と呼んでいるのでしょう。
 
ダビデにつく人々の中に、主は立っておられます。ダビデは独りではありません。もちろん主が共にいるのですが、仲間もいます。敵対する者は、この神を共にしているのではない、と聖書記者は考えています。だからこうしてダビデは危機を逃れた、そう、サウルを逃れているうでありながら、凡ゆる危険からダビデは逃れていたのです。
 
神に祈った故に守られた。この感謝の祈りは、実際にその危険が去ったからこそ詠えたのではあるに違いありませんが、切実な思いが明らかになっているように見えます。いま不安な者の心にも、ストレートに伝わってくるものがあるのでないでしょうか。敵対する者に悪事を突き返してください。そう叫ぶほどに、切羽詰まった状態のダビデでした。
 
そう祈るからには、ダビデはその悪事の中にいるはずがありません。主のまことに与する者としてここにいるのだ、と宣言していることになります。いやはや、凄い自信です。私の目は敵を見据えます、というその眼差しは、疑いなく主の側から発しているのだ、と信じ切っている故です。逃げているようで、神が共にいる強みを存分に発揮しています。


Takapan
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