きっと誰にもあるだろう

チア・シード

詩編51:12-19   


ダビデの悔恨の詩は、人の心にぐっと刺さってきます。このような過ちを免れている人はいないでしょう。もちろん、そうした認識の欠落した人もいるから、そうした人の救いはどうなるのか、と少し懸念はあるのですが、ともかくこの詩にしてもトータルに見るのが当然でしょうが、今回は詩の中央部だけを切り抜いて味わうことにしました。
 
そこから見えるものは何でしょうか。生まれ変わりたいという願望がよく人に起こりますが、生まれ変わらなければもう生きていけない、という切実さは誰もが覚えることなのかどうか、そこまでは私には分かりません。新しい命を神に求める。これは一つには、永遠の命への憧れです。それは罪の心、自己中心の心ではありません。それはつくづく嫌になったのです。
 
そこには死しかありません。神の聖なる霊、それで満たして下さい、と祈ります。救いの喜びを、かつて私は知っていたのですが、今はそれどころではありません。どこに立っているか分からない惨めな中にあるのです。神よ、どうか支えて下さい。私はあなたに背きました。普通、ここでもう手一杯になるところですが、ここでダビデは見事な反応をします。
 
この悔恨を、ダビデは自分一人だけの問題とはしなかったのです。もちろん、今は自分の一人の責任を覚えていますが、しかしすべて人間はそういうものだという理解もしています。同じように苦しむ人だっているのです。そんな罪人が、神に立ち帰ることを願っています。そういう人に、私は罪人の先人として、主の赦しと救いを伝えるのだと言っています。
 
神へと続く道には、豊かな赦しがあるのです。この良き知らせ、福音を人に伝えたいと考えています。もちろんこの私を助けて下さい、というのが第一です。この舌にあなたの救いを歌わせて下さい、と願っています。とても今はそんなことが言える場合ではありませんが、今単純に神を喜んでいたとすると、まさに偽善者そのものとなってしまうでしょう。
 
この唇を賛美へと開くのは、主の赦しです。主の救いです。それをまた、神の義とも呼ぶことがあります。これらは同じ事柄の別の側面だと見なし得ます。必要なのは、いけにえではありません。砕かれたまことの霊こそが求められています。それは自らの痛みです。あなたもきっと身に覚えのあることです。イエスはそれ以上の痛みを担っていたのですね。


Takapan
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