罪を前に置くことから

チア・シード

詩編51:1-19   


主に背いたことを私は自覚している。目の前に私の罪が置かれている。これがスタートです。これなくしてこの悔恨の詩はありません。神との交わりである祈りさえありえなくなります。また、そもそも神の前に出るということすらありません。神よと叫んだところで、私たちはどこに神がいるのか知らないからです。しかし、自分の罪を目の前に置いたとき、画期的な出来事が成立します。
 
詩の最初の言葉は「憐れんでください」でした。英語の意味を調べているとき、全然別の語が幾つも「嘆願する」であることを私は不思議に思っていました。どうやら嘆願とは日本人には馴染みがないが、欧米文化では頻繁にあるものらしい。それは、おそらく神の裁きの前に出るという前提があってのことではないかという気がします。
 
詩は「憐れんでください」から始まりますが、これは心のスタートではありません。私に罪があることを、そして私のしてきたことが罪であることを、私が認め、それを自分と神との間に置いた、それが端緒なのでした。目の前に自分の罪を置いたからこそ、その向こうに神が現れたのです。さらに言えば、神はずっとそこで待っていました。私が罪を置くのを、待っていました。
 
自分の罪を置いたときに、私から神が見えるようになりました。私たちが救われたとき、このような体験をしているのではないでしょうか。罪を認めてそこに置いたとき、かつて膨らんでいた自分は小さくなります。それまでの気勢がすっかりなくなります。ダビデもそうでした。預言者ナタンの話に義憤を覚えて大きく出た次の瞬間、それが自分だと指摘され、限りなく小さくなったのでした。
 
傍から見て赦されざる罪を犯したダビデ。それに由来する言葉がここに詩という形で記録されます。流血さえも正当化した自分。そのことに良心の呵責すら覚えず、ナタンから突きつけられるまで忘れ去っていました。自分の中では、なかったことにしていたつもりでした。しかし、神の言葉を預かる預言者ナタンはそこへ斬り込みました。
 
ダビデはこれに対して、神の言葉を火にくべたり、預言者の口を封じたりしようとはしませんでした。むしろ、いたずらのばれた子どものように、自分の悪を嘆き、こんどは人々に神の救いを伝えますなどと誓います。ダビデは、主の前に出て、視線を主から逸らしませんでした。
 
私たちはどうでしょう。私が置いた罪により、その向こうにうっすらと神の姿が見えました。するといつの間にか、置いたはずの罪が、宥めの供え物になっています。その罪は、なかったものになるのです。いけにえがあったからです。神の子イエス・キリストが、誰ひとり助ける者なく、無慈悲にも十字架という残酷な刑に処せられた、それで救われたのです。
 
罪は私を苦しめました。痛くて痛くて、罪に苛まれて身動きがとれなかったものですが、私の痛みは、十字架のイエスが負って下さっていました。私の借金の肩代わりに、私の罪を担い、罰を負って下さいました。神と私との間に、置いたはずの罪が、十字架につけられた罪となり、御子イエスがイサクのなりそこねたいけにえとなったのでした。その十字架が、まざまざと目の前に見えます。こうして、罪を置いたスタートが、砕かれた骨を躍らせる道への準備となったのでした。


Takapan
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