幸せなら手をたたこう

チア・シード

詩編47:1-10   


詩編は、概ね神を賛美する内容です。しかし人間の側の事情やその感情も、時に訴えられます。ずっと賛美であることもありますし、人の叫びがひたすら続くこともあります。では、この47編はどうかというと、タイトルにあるように「賛歌」だと言えましょう。けれども、ただ神を称えているのでもありません。神と人との関係が見えてきます。
 
互いに目を向け、往復するような動きがそこにあります。「すべての民よ」と呼びかけ、声を出し、手を鳴らして賛美します。主は「偉大な王」であり、イスラエルのところへすべての民を集めるのです。主はこの賛美の中を歩みます。だから人間は、この主をひたすらほめ歌わなくてはなりません。こうして人と神との関係が、強い絆の如く張られます。
 
「神は全地の王」なのだから、「ほめ歌え」。その神は「国々の王」として「聖なる王座」に在す。全ての民は「アブラハムの神の民」となり、ひざまずく。この地は神の支配下にあり、すべての民により崇められるのです。視点が人と神とを往復し、その間のつながりに眼差しを送ります。詩人は私事を少しも述べませんが、詩の中に確かにいます。
 
そして詩の中に、すべての人を取り込もうとしています。単に自分と神との関係だけに浸っているのではありません。この詩の始まりは、「すべての民よ、手を打ち鳴らせ」でした。1959年、20代半ばの木村利人さんは、ボランティアに来てフィリピンの農村に来ていました。そこには太平洋戦争で日本人に村を焼かれ、家族を殺された人々がいました。
 
「日本へ帰れ」「死ね」と罵られる中、家族全員を亡くしたラルフという青年が、赦しの言葉を投げかけます。新しい世代の日本人として、その音楽性は再び武器をとって戦わないと誓う一歩としよう、と木村さんは誓います。涙と共に祈ったときに開いた聖書が、詩編47編でした。「幸せなら手をたたこう」の詞がここから生まれました。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります