あふれる賛美

チア・シード

詩編45:2-18  


あふれている。詩はこの語から始まり、希望を与えます。私の心にあふれるのです。何があふれるのでしょう。それは、ダーバール。ヘブル語の中でも有名なものの一つ。普通「言葉」と訳します。言葉があふれます。しかしこれは「言」を表すとともに「事」のほうも表すとされています。出来事や事実、さらに歴史をも含む意味を有します。神においては、言葉が出来事となります。言葉と存在が一致するのが神です。
 
あふれる言葉は、神の恵みがここにあることを伝えます。詩人はここからスタートします。この詩人、いま王の前にいます。王をあなたと呼んでいるように見えますが、あなたは神の祝福を受ける方とも言いますので、王とあなたとは必ずしも一致しません。そして7節で王座にいますのは神であるといい、8節ではあなたが神に従い神に油を注がれたことになっています。後半にもあなたがたくさん現れますが、だんだん関係が分からなくなってきました。
 
ローマ皇帝は自らを神(の子)と呼べとしていました。古代の王なるものは、自らを神と呼ばせていたともいいます。ここで神というところは、王その方を表しているという読み方があるそうです。王の宴会がここに行われています。宴会は、神の国の生き生きとしたイメージです。こうして見てくると、あなたとは王のことであり、油をあなたに注いだ神は、神と呼ばれるあなたとは別のまことの神と読むしかないようです。
 
ところが11節からは、王妃へ向けての言葉となります。だから、ここからしばらく、あなたは王妃を指しています。詩人は、この王妃に向けて言葉をかけています。王妃が二人称です。以後、王妃の美しさが称えられますが、王妃が三人称扱いとなり、あなたという二人称が再び王に戻ります。ころころと主語が入れかわり、ぼうっと読むと混乱してしまいます。
 
この7-8節が、ヘブライ書の偶々同じ7-8節に引用されています。そこでは明らかに、キリストが意識されています。王の婚宴がいつしか神とイスラエルとの関係のようにも見えてきますが、それよりもおそらくキリストと教会との婚宴に見るのが新約の時代の見方だといえましょう。教会はキリストの花嫁となるイメージをここに重ねることができるからです。
 
ここには王の華々しい宴会が、言葉を飾りに飾って描かれていますが、悲しいかな、人間の言葉はこの程度でしか称えられません。賛美の歌を私たちが歌うときにも、もどかしく思います。神を褒めるのに、これくらいの言葉しか自分は持ち合わせていないのだろうか。ワーシップソングにしても、同じような言葉をただ繰り返して、その程度のことしかできないのか、と。
 
歌詞が平板にならないためには、聖書の豊かなイメージを呼び込むことです。この詩は、キリストの弟子にとっては、キリストと教会との関係の中に置かれて見えると理解しました。黙示録も思い出す中で、教会が神の都、神の国に招かれていく様子をイメージすることはできないでしょうか。キリストの香りを漂わせるべくそばに置かれ、永遠の調べが響きわたります。
 
この詩は、コラの子の詩と掲げられていました。モーセの時代に滅んだコラの子孫は憐れみによってか、聖歌隊を司る役割を与えられるようになっていたようです。つまりこの詩は聖歌隊の中で生まれているのです。賛美の歌がここに歌われます。これを私たち新約の徒は、キリストというフィルターを通して見ることにより、いっそう豊かな恵みを受けることができるようになっています。神の「言」そして神のしてくださった「事」がいま、私たちの心にあふれているでしょうか。


Takapan
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