神はどこにいるのかと問われて

チア・シード

詩編42:7-12   


鹿が水を喘ぎ求めるという冒頭部が有名であるのに、それには詰め寄らずこの詩を味わうとどうなるかに挑みます。「お前の神はどこにいる」(42:11)に注目しようと思いましたが、それは実は前半の4節にもありました。このような言い方をされるのは辛いものです。自分が頼り信じる神を否定されますが、エリヤのように神の力を示す業も持ち合わせていません。
 
ただ祈るだけしかできないのです。私は打ち沈み、呻きます。今ここで結論を出さなければ、敵からはさらなる攻撃がぶつけられます。それも嫌なこと。でも待つしかありません。待つという態度を信仰の生き方とするしかありません。私が答えを出すしかないのですから、業で応えられないなら、私が神の顕現を待つしかないのです。
 
他方、かつて自分に注がれた恵みを思い起こすということで、詩人は自らリカバリーします。主は大いなる力を示して、あの時私を助けてくれたではないか。あれは私の力によるのではなかった。私はただ立ち尽くして有様を見守っていたに過ぎなかった。主が一方的に事を成したのでした。今宵、私は歌いましょう。神への祈りを歌として献げましょう。
 
神はどうして私を忘れてしまったのですか。いや、そのように嘆いていてもよいのでしょうか。どこまでも信仰正しく主を頼るべきではなかでしょうか。神はどこにいるのか、と馬鹿にされて、うろたえているのかもしれません。しかし心の過程の一つとして、この戸惑いがあったことをすべて否定する必要はないと思われます。
 
私のスタンスは揺るがないのです。あなたは生ける神であり、岩なる神なのです。それでも、私の辛さが軽減するわけではありません。神は応えてくれません。でも、神との間にコミュニケーションができていないのだとすれば、それは私の側が通信を切っているだけのこと。孤立した寂しさの中で、私はただ祈ります。そして、待ちます。
 
我が魂よ、と呼びかける詩人は、私が私に呼びかけているようなもので、まるで自己分裂しているかのようにも見えますが、そうではありません。また、主体なる私の隠蔽をしてごまかしているわけでもありません。神と対峙しているのです。神に祈り、神と交わっているのです。神が私の魂を大切に扱ってくださっているのです。


Takapan
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