こんなに苦しい思いの中で

チア・シード

詩編42:2-6   


詩人は、心の苦しみを歌っています。魂が打ち沈んでいるのです。鹿がいる風景は、長閑な自然の風景であるなどと思ってはいけません。死にそうなのです。一体、涸れた谷に、水があるのでしょうか。空しい求めをする鹿の瀕死の訴えを感じるくらいがちょうどよいのです。喘いでいるわけで、これはただ事ではありません。命が続くかどうか瀬戸際にあるのです。
 
これが今の詩人の魂です。FEBC(キリスト教放送局)のお便りコーナーに、時折そのような辛い訴えが届きます。その時、パーソナリティは返答に困り、というかまずとにかく神にこの訴えを執り成して祈ります。もはや祈りで以てしか、答えることができないのです。これは賢明な、そして相応しい対応ではないかと思います。
 
鹿が谷にいる、ちょっと画になるような詩も、実に恐ろしいものを示していると受け止めたいと思います。私は死にそうなのです。渇いた魂であるということを歌います。生ける水が与えられる、というように話がつながればよいのですが、私は、イエスの最期の言葉の一つを思い起こします。「わたしは渇く」という十字架の言葉です。
 
人間の壊れた魂、神から離反したその姿を、渇くという思いでしか表現できなかったイエスの心に近づきたい。神の顔が見えない。見上げても、見渡しても救いが感じられない。どこにも味方がいない。孤独なのです。私はもはや、涙しか食していません。敵は私に吐きかけます。おまえの神はどこにいるのか。神がいるというのなら今助けてくれるはずではないか。
 
神はどこかに旅しているのか。眠っているのか。エリヤが、バアルの預言者たちに投げかけたような言葉が今襲います。そう言われても反論ひとつできないのです。人々が、日夜そのように吐いてくるのに、何も言えないのです。思い起こす。人々と共に神殿詣りをしたことを。今の敵たちも、かつては味方でした。
 
しかし彼らはうまく世に立ち回り、信仰からは離れてしまいました。そして今私を時代遅れの頑固な奴だとせせら笑っています。あれは何だったのか。苦しい息をしながら顧みます。私は私の魂に呼びかけます。打ち沈む必要はないのだ、と。呻かなくてもよい。神を待ち望み、神を誉め讃えていればよいのではないか、と。それは神からの慰めでありました。


Takapan
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