ダビデの心にあったもの

チア・シード

詩編40:1-14   


ダビデは主と豊かな交わりをもっていました。主に愛されたことで、クーデターに次ぐクーデターで混乱するばかりであったイスラエル王国と異なり、ユダ王国はダビデの血統が続けられていきましたし、後にキリスト・イエスがその子孫から現れました。ダビデは人間的には失敗を数多くしましたが、いつも主のほうを向いていたのは確かです。
 
ダビデの行いが良かったから救われた、というのとももちろん違います。本当にダビデの作かは疑わしいものが多いにせよ、詩編にはしばしばダビデの名が冠せられています。賛美歌の作者としても豊かな才能を有していました。こうした事情は、ダビデが善行をしたがため、とも思えません。無邪気に、ひたすらに主を見上げてたことで、主と結びついていました。
 
主が身を乗り出してくるほどに、ダビデは神と近い距離を感じています。滅びの穴から救い出され、口には新しい歌を与えてくれる、それがダビデの神です。人がこれを見て恐れ、主を頼みとするであろう、とも言い、幸いなりと喜んでいます。いけにえのせいではない、まさに一方的に与えられる恵みの故に、ダビデは心底喜びます。
 
私は来ました、と素朴に神に告げ、何もかも私のことは神の巻物に記されている、と安心しています。すっかり委ねるからこそ、平安なのでしょう。このような信仰が私たちにはあるでしょうか。巻物に名が記されるというのは時折聖書に出て来るモチーフですが、ダビデの時からすでに重視されてきたことでありました。
 
喜んで御旨を行いましょう。それは救われたからこそ行うことです。その逆ではありません。主の律法が私の内にあって、これを実現させます。私を突き動かす主のはたらきがあるからです。もう私は唇を閉ざすことなどなく、主の恵みを語り告げましょう。自分だけの心の内に隠しておくようなことはしないし、もうできません。主の真実を告げ知らせます。
 
と、このように威勢のいいことばかり言ってきた詩人が、突然、私を守って下さい、と頼み始めます。こうして読者は気づきます。これは能天気なハッピークリスチャンの描写とは訳が違うのだ、ということに。数えきれない災いが襲い、絡みつきます。咎が、過ちが私に迫り来るのです。毛の数より多くそれは襲い、私の心は挫けます。
 
お願いだから救い出してくれ、と詩人は叫びます。急いで助けて下さい、と嘆願します。この後も詩は続きますが、目も当てられないほどに疲労し、憔悴しきっているように見えます。なんと自分は哀れで惨めだろうかと詩人は嘆き、主を求め慕うならばいつも主を褒めたたえることができるように、と切に祈ります。
 
力ある詩のようでありながら歌ってきたのに、なんとも弱気な本音がその背後には潜んでいたことが分かります。これは欺瞞のように思われるかもしれません。でも、たぶんそうではないと思います。これでよいのです。喜び私も、弱気な私も、どちらも私です。ただ主の前にいる私は、両方からできています。そのままの私を、主は救って下さるのです。


Takapan
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