福音を語る

チア・シード

詩編40:1-18    


「大いなる集会で正しく良い知らせを伝え」と10節にあります。ユダヤの文学のレトリックとして、中央部に大切な部分を置くというものがありますが、ここはまさに詩の中央です。実はここで新共同訳は、他の訳と大いに異なっています。他の訳は、7節で私が言った、とあるのが9節(他の邦訳の多くは1少ない8節の扱い/以下同様)までで、10節は完了形のように訳しているのに、新共同訳は、10節が9節に続いてずるっと入り、しかも詩人の決意のように訳されています。
 
この詩は、元来二つ別々であった詩が合わされたのではないかという研究がありますが、だとしても、合わされたなりに何か理由があってのことでしょう。その上で、中央の10節には特別な重みが持たせてあると読み取ることができるという視点で味わっていこうと思います。
 
前半で詩人は、主に望みを置き、その名を呼んでいます。立つ足場を与えられ、主を賛美できるようになりました。なんと幸いなことでしょう。語り尽くせぬ恵みがあり、詩人と主とは強く結びつけられていることを喜びます。神の許にあるということで、詩人はここに来ている、立っている、と告げます。我ここに立てり。主の教えを胸に刻み、それを行うことが喜びとなります。
 
さて、この中央です。「大いなる集会」は仲間を前提としていますが、その仲間からは冷遇されている、否蔑まされているのです。同じイスラエルの民に詩人は見下されており、迫害すら臭わせています。後で「あはあは」というオノマトペの嘲笑があります。「はやし立てる」より露骨です。その中で、詩人は「良い知らせを伝え」ます。
 
この語は、七十人訳が「福音を伝える」という語で訳しました。もちろん、その日本語にするのは新約以後を踏まえてです。七十人訳が福音と言ったのではないでしょう。まさに「良い知らせを伝え」ることです。それを新約の時代からは「福音」の動詞形とするのです。しかし新約聖書の最大の鍵になると言える語です。主の真実と救いを真正面から表現する語です。詩人は、自分を軽蔑する同胞たちへ、真実の福音を告げたというのです。
 
後半では、敵の中にいる自分の立場から訴えます。主の慈しみを常に注いでください。悪に取り囲まれているのです。「自分の罪に捕えられ」とありますが、これは「罪」とは訳しすぎで、他訳では「咎」や「不義」となっています。ですから、詩人は罪に苛まれているわけではないのです。ただ心挫けているのは事実です。心折れているのです。ですから助けてください、と叫びます。
 
詩人はひたすら主を求めます。そこには喜びがあり、楽しみが待っていると信頼します。自分と同じような境遇の人々も同じように主を賛美できますように。自分を取り囲む苦難の中で、主が味方をしてくれることを願い、また信じています。主よ来たりたまえ。あなただけが助けであり逃れるべき場です。詩人は平安を得たでしょうか。信頼をこの詩の続きに余韻として残します。
 
福音を語りました。だから信頼が置けるのです。必ずや主は助けてくださるのだ、と。それも、宗教的な集会のただ中でした。そこで蔑まされる詩人は、もてはやされる説教者や牧師ではありません。本当に福音を語るというのはどういうことでしょう。この詩人にこそ、主は伴っているとは言えないでしょうか。新共同訳は省いていますが、「見よ」と強調しつつ、私は唇を閉じない、と表明します。語り続けることを止めません。善人を装う者たちに取り囲まれてなお、主を証し続ける決意です。福音を語るからです。


Takapan
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