その民とは誰

チア・シード

詩編3:1-9   


あなたの民の上に祝福を、とダビデは詩の末尾で祈りました。あなたの民というのは誰のことを言っているのでしょう。情況は、息子アブシャロムの野望から、都を追い出された恰好となったダビデの心から出た詩ということになっています。ダビデ王は苦しみを覚えており、自分を苦しめる者からの脅威を感じています。
 
神の救いなどおまえにあるものか、と多くの者がダビデに言っていると言いますが、これはダビデの心にそのように感じられるという意味かもしれません。つい先日まで自分を王と称えていた人々が、落ちぶれた自分を見たら、神なんてどこにあるのだ、と後ろ指を指してくるのではないか、と。被害妄想とも言えない現実が確かにあります。
 
王の地位を息子にいいように奪われてしまいました。そのクーデターに対して何の抵抗も示さずに、ただ都落ちするしかなかったダビデ。これを民衆が見たら、嘲笑することでしょう。ダビデはそうした自分自身に惨めさをぶつけておきつつも、自分の目を主に向けます。逃亡しながらも天を見上げて祈るのです。
 
主よ、あなたこそ私を守る方。この頭を起こしてくださる方だと信頼を告白し、呼べば応えてくださる方であると心を寄せます。私は安らかに眠りを得ることができ、再び立ち上がることができるでしょう。今やイスラエルの民が、都を牛耳ったアブシャロムの支配下に入ってしまいました。ダビデはアブシャロム自身も確かに脅威です。
 
しかし、そのアブシャロムの言いなりになるであろう民衆の手に落ちることを直接恐れていると思われます。明智光秀が、農民に襲われたというように、いつ何時民衆により殺されるか分かりません。けれどもダビデは、多くの民に包囲されても決して恐れない、と声を挙げます。主が立ち上がってくださるなら、何を恐れるものかと叫びます。
 
主に勝る者はどこにもいるはずがないではありませんか。こうして主を頼りつつ、ダビデは言葉をまとめます。「救いは主のもの。あなたの民の上に祝福を」と。この詩で「民」と呼べるものは、イスラエルの民しかありません。今やアブシャロムの許にあり、このダビデを敵視して、命すら奪おうと虎視眈々と狙っているかもしれない、敵そのものです。
 
この敵はダビデを取り囲んでいます。いつ襲われるか知れない民について、主の祝福があるように、と祈るとは、どういう神経なのでしょうか。もちろんダビデは自分もその民の一人として、救われることを願っています。しかし、敵を救いたまえと祈っているのも確かです。汝の敵を愛せよ。やはりダビデはただ者ではありませんでした。


Takapan
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