主に従う者の幸福

チア・シード

詩編37:23-40   


アルファベット順に各連が始まるように作られた、技巧的な詩。けれどもただ形だけ揃えているわけではありません。「ついでに」文字を揃えたというところです。主を信頼する者に与えられる絶大な祝福と平安、そして主に逆らう者に対する呪いと不幸を、一方的に、これでもかというほどにまで、対比して示します。詩編の得意なところです。
 
道を主に任せよと命じる詩人は、後半では説くに危機に陥る様子を示します。尤も前半から危ない場合があるのですが、主に従う者が常に幸福感を出してのほほんとしているのではないということは、十分分かっています。何もない平和な幸福を望むような信仰は、主を信じているのではなくて、幸福を目的としているに過ぎないということになるでしょう。
 
カントの幸福論でも、幸福を目標にするのであれば、他のものがすべて手段となり、人間は悪辣なことをするようになるだろうと見なされています。自分が道徳律に従うからこそ、その先に幸福が期待されるという方向性が大切なのだと言うのです。いや、カントのほうが、この聖書の姿勢に似ているのであって、カントに聖書が似たのではありますまい。
 
罠にはまり、命が脅かされても、主につながっている者は助けられるというストーリーは、カントのように道徳律に従うことから希望される幸福観であれば、あくまで期待に過ぎませんが、外に頑として存する神の力に根拠があると信頼するときには、現実的なダイナミックな信仰となりえます。
 
逆に言えば、世にはいかに不条理なことが渦巻いているか、ということも私たちは知ります。ヨブの友たちが不幸を罪のせいだと断じていましたが、そうとでもしなければこの世の不条理について説明ができなかったのです。人生は不幸なことに満ちています。たとえ本人は良かれと思ってやったとしても、思った通りの報いがくるわけではないのです。
 
人間の知恵や願いは、そのまま現実のものとなるのではありません。人は神ではないのです。だから全能の神が、神だからこそ、それができると認めます。ただ、人間が善であると考えることが、本当に神にとってもそのまま善なのでしょうか。ここにあるように、人の道は本当に神のよしとするところだとしていてよいのでしょうか。
 
問題は、主に従うのか逆らうのか、そこに核心があるのかもしれません。そして、主に従っていると口に出してはいても、その実、主を従えているようなことをしている人間が案外多いということに、気をつけておかなければなりません。自分で気づきにくいものなのですが、特に近代、そしていまも、このような事態が実際頻発している悲しさを覚えます。


Takapan
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