訳もなくこうなったのか

チア・シード

詩編35:1-10   


「彼らは訳もなく私に落とし穴と網を仕掛け/訳もなく私の魂を狙って穴を掘りました」とは、やはりダビデの詩です。どれほど危ない橋を渡ってきたことでしょう。敵がここに描かれていますが、具体的にそれが誰であるのかは記していません。だからこそ、詩はそれぞれの人の心に響くのです。誰にも、思い当たる敵がいるのですから。
 
「私と争う者」であり「私と戦う者」であると書かれていますが、「私の命を狙う者」「私に迫り来る者」だといろいろ繰り返されても、やはり分かりません。私たちは、それぞれにこの詩に共感できることでしょう。流行歌もそうです。聞く者が、それは自分のことだと感じ取れるような構造がなければ、喜んで聞かれることはないでしょう。
 
詩人は、常に主の方を向いています。この祈りは、主に向けられています。「あなたの救いは私だ」と言ってくれと求めていますが、ダビデはこのとき、この声を神から聞いていたわけではないようです。敵を呪い、しくじるように、辱められるように、と言っています。「主の使いが彼らに追い打ちをかけますように」と、天使の応援まで求めています。
 
天使に加担してくれと激しく求めるほどに、ダビデは切実なのです。その「彼ら」は、私に何をしたのでしょうか。初めに挙げたように「訳もなく」私を陥れようとしたのです。でも本当に「訳もなく」なのでしょうか。私たちは安易にこれを口にすべきではないと考えます。もちろん、いじめられている側に問題がある、と言いたいわけではありません。
 
ただ、自分の罪に、自分で気づかないでいながら、やたら敵を呪うことや、自分が喜べるように、などと求めることをすべてよしとするようには認めたいとは思わない、ということです。多くの場合、私は「訳もなく」苦しんでいるのではありません。私の内に何か訳があってそうなった、と自分では薄々でも感じている場合が殆どです。
 
考えてみれば、ヨブの訴えは、このダビデの言葉と重なるものがありました。自分の悪のために不幸が重なったのではない、とヨブは訴えました。その点では、ヨブは揺らぐことがなかったのです。それは一つには、神に対する絶大な信頼の故ではなかったか、とも思えます。この苦しみは、神が罰として与えたのではないのだ、と。


Takapan
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