主を畏れる者は罪から救われる

チア・シード

詩編34:1-23   


親友ヨナタンと別れ、ダビデはサウルの王宮を離れました。命を狙われていることに耐えられなくなったのです。「ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。」(サムエル上21:2)このときダビデは一人でした。部下の分のパンを貰い受け、ゴリアトの剣を手に「ガトの王アキシュのもとに行った。」(21:11)その家臣たちはダビデを警戒します。
 
ダビデは「気がふれたように見せ」(21:14)、難を逃れます。詩編34編は、このときの詩であると冒頭で説明しています。そのダビデの言葉は、「私はどのような時も主をたたえよう」と始まっています。ピンチの時の詩であるだけに、説得力があります。「主は私に答え/あらゆる恐怖から助け出してくださった」という安心を示しています。
 
この私的な経験を、ダビデは「主を仰ぎ見る人」「苦しむ人」「主を畏れる者」と普遍化し、主への信仰の力を明らかにします。だから「主に逃れる人」は幸いです。「主を尋ね求める人」には、事欠くことがありません。特に「主を畏れる」ということについては、繰り返し、ダビデは幸いを強調しています。ダビデ自身、きっとそうだったのです。
 
実に、ダビデの信仰というものは、そこにあったと思われます。ダビデの故にその子孫が特別に祝福されたのも、そうです。ダビデは自らの人生のモットーとして、「主を畏れる」ことを貫いたと言えるでしょう。それが、主の目から見て「正しき者」なのでした。その人には災いもありましょうが、「主はそのすべてから助け出してくださる」のです。
 
その骨は一本たりとも砕かれることがない。イエスの十字架についての説明ですが、主が「正しき者」を助け出して救うのなら、イエスは何故殺されたのでしょうか。詩は「主に逃れる人はすべて罪に定められることはない」と結ばれます。イエスは罪には定められません。そしてイエスに逃れる者もまた、罪に定められることがないようにしたのです。


Takapan
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