災いと命

チア・シード

詩編34:1-23   


いつも絶えず主をほめうたう。ダビデがサムエル記上21章のシーンに基づいて作ったと題されている詩ですが、そこではガトの王アキシュの前で狂人を装ったとされています。しかしここではアビメレクという名になっています。その箇所の直前ではノブの祭司アヒメレクの許にダビデが逃れ、パンを受け、ゴリアトの剣を手にする場面が描かれています。人名は難しいものです。
 
ダビデはその足で、このアキシュのところに来たところ、その家臣に正体を見抜かれたことが分かり、捕縛を逃れるために狂ったふりをした、ということのようです。当然剣は奪われていたのでしょうが、果たして狂ったダビデはその剣を返してもらったのでしょうか。細かなことが時々気になります。
 
ダビデはこの救いを、己れの知恵によるものだとは考えませんでした。主を賛美してただ感謝しています。脅かす者から救われるのはすべて神の故なのです。ダビデはこの時の自分を、貧しい者だと認定しています。3節と7節とで、新共同訳は同じく「貧しい人」という訳語を適用していますが、原語は同じではありません。3節で呼びかけているのは、謙遜な人々のニュアンスも含むかもしれません。
 
ダビデはまた、主を畏れることを自分が教えよう、とリードする気を見せています。さあ悪を避け、平和を追求しよう。偽ることから遠ざかり、主に助けを求めよう。自分の力に頼るようなことはしないで、ひたすら主を町、主に切りひらいて戴こう。主の前には心砕かれた者でありたい。まるでバト・シェバの人の時のような口調でもありますが、それと無関係にダビデの中にこの信仰があったとも言えるでしょう。
 
主に従う者には災いが起こらない。そんなふうに詩人は考えてはいません。むしろ災いが重なりさえするのだ、と言います。ここには注目したいものです。骨一つ折られはしないという保証があるから、どんな災いに見舞われても、致命的なことにはならない、と言うのです。災いに受けない方法などを熱心に主張するグループがいまもありますが、信仰強いようで実は危険な勢力となっています。
 
災いはあります。むしろ災いが続きます。神がいるのなら善人が災いに遭うのは何故、という疑問もあるでしょうが、遭わないのなら、災いを目的としてひとは行動することになるでしょう。神を神として崇めることをしなくなります。ひととはそのように、どこまでも自己中心になりたがる存在です。そして自分ではそのことに気づきません。
 
災いで命を失うのが、主に背く者である、というあたりをぼんやり読むと読み間違えます。災いで亡くなった人を見下すことは決定的に誤りです。しかし、永遠の命のことであれば、これは正しい言明です。見た目の困難さが神の審きなのではありません。守られる命、永遠の命ということについて、私たちは益々深く見据えていく必要があると言えます。


Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります