神との間に正しき人

チア・シード

詩編33:1-22   


「正しき人よ」と始まる詩です。この後、その語義が特に活かされているようには見えません。「賛美はまっすぐな人にふさわしい」と続くくらいです。少し離れて、「主は正義と公正を愛し/主の慈しみに地は満ちる」と、神の正義が挙げられるところまでを含めてもよいでしょうか。「主を神とする国民」が「幸いな者」だとしています。
 
この民は、神と結びついています。神とつながり、まっすぐに主を見つめ、向き合い、神との一定の関係ができあがっています。神への祈りは、お決まりの文句で唱えていればよい、というものではないでしょう。だから「新しい歌を主に歌え」と言います。既成のもの、判で押したようなもので、祈りが終わらないのと同様です。
 
賛美もまた、ただ決まった歌を歌っておしまい、とすべきではないのです。そんな命のない祈りや賛美を、詩人は求めてはいません。己れの内から湧き起こるものを知っているからです。果たして私たちの礼拝の賛美の歌は、どうでしょうか。ただなんとなく形だけで歌っていないでしょうか。確かにイエスは「こう祈りなさい」と言うことがありました。
 
しかし、主の祈りを型どおり唱えることで礼拝ができると言ってよいのではない、と思われます。詩人は「世界に住む者」を視野に入れ、「地に住むすべての者」を見る神を意識しています。そして、救い出すこと、助け出すことをなす、主という姿に注目しています。「私たちの魂は主を待つ」のです。このお方こそ、助けであるのです。
 
そこで「主によって私たちの心は喜ぶ」のです。私たちはこの「聖なる御名を頼みとする」のです。その主を私は「待ち望みます」。この詩は必ずしも目立ちませんが、「正しき人よ」との呼びかけに始まり、神との関係を結んだ者の幸いを、一つの前提として歌い上げています。さらに全地を視野に置く、スケールの大きな詩となっています。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります